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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志12 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「さて、いつまでもここで油を売っているわけにはまいらぬ。殿軍に必要なものがあるならば、今のうちに申してくれ」
「そうだな……。この寒さだ、酒を置いていってくれぬか」
「酒?……退陣までの寒さ凌(しの)ぎに呑ませるというのか?」
「いや、若神子(わかみこ)まで無事に辿り着いた時のための褒美だ」
「ああ、そういうことか」
「それと弓矢と弓懸(ゆがけ)を多めに置いていってくれぬか」
 信方の言った弓懸とは、矢を射る際に指先を守るためにはめる革の手袋のことだった。
「かような寒さでは、指がかじかんで素手では得物(えもの)が握れぬ。両手に弓懸をはめれば、何とか槍も握れるであろう。それに追撃を捌(さば)くには、飛道具が有効だ」
「なるほど、両手に弓懸か。考えたな。では、兵糧と薪(たきぎ)も多めに置いていくゆえ、まずは兵たちに腹拵(ごしら)えをさせてやるといい。それから陣中に焚火(たきび)と捨篝(すてかがり)を焚けるだけ焚いておけ。敵も物見を出して様子を窺(うかが)いにくるであろうが、この雪では陣容の詳細は摑めまい。捨篝を使って陣を大きく見せ、われらがまだやる気満々だと思い知らせてやるがよい。退陣を知っても、追撃を迷うぐらいにな」
 捨篝とは、撤退の際に捨ててもよい篝籠(かがりかご)のことで、これを陣の周囲に広げると、夜に自陣を大きく見せる効果があった。
「ああ、わかった。有り難い策だ」
「若君に、御武運をお祈りしている、と伝えてくれ」
 昌俊はそう言い残し、踵(きびす)を返す。
「おう……」
 信方は少し逡巡(しゅんじゅん)した後に、声をかける。
「……昌俊」
「何だ?」
 呼び止められた昌俊は、怪訝(けげん)そうな面持ちで振り返る。
「かたじけなし」
 信方は深々と頭を下げた。
 原昌俊は右手を小さく振り、無言で歩き始める。
 何ということはない、陣馬奉行の役目を果たしただけだ。そんな仕草だった。
「では、方々。後ほど、兵を連れて若の陣へ。遠慮なく腹拵えさせて貰(もろ)うてから、評定(ひょうじょう)とまいりましょう」
 信方は諸角虎定、原虎胤、跡部信秋の三人に言った。
「承知!」
 三人は声を揃えて答えた。
 殿軍の陣容も千五百弱と定まり、信方はその経緯を晴信に伝える。それから集まった兵たちを動員して焚火と篝火を熾(おこ)させ、炊き出しを行った。
 あらかたの支度を終え、晴信と信方は将兵の前に立つ。
「皆、よく集まってくれた。まずは若君様からの御言葉を頂戴する。では、お願いいたしまする」
 信方に促され、晴信は緊張した面持ちで前へ出る。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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