「さて、いつまでもここで油を売っているわけにはまいらぬ。殿軍に必要なものがあるならば、今のうちに申してくれ」 「そうだな……。この寒さだ、酒を置いていってくれぬか」 「酒?……退陣までの寒さ凌(しの)ぎに呑ませるというのか?」 「いや、若神子(わかみこ)まで無事に辿り着いた時のための褒美だ」 「ああ、そういうことか」 「それと弓矢と弓懸(ゆがけ)を多めに置いていってくれぬか」 信方の言った弓懸とは、矢を射る際に指先を守るためにはめる革の手袋のことだった。 「かような寒さでは、指がかじかんで素手では得物(えもの)が握れぬ。両手に弓懸をはめれば、何とか槍も握れるであろう。それに追撃を捌(さば)くには、飛道具が有効だ」 「なるほど、両手に弓懸か。考えたな。では、兵糧と薪(たきぎ)も多めに置いていくゆえ、まずは兵たちに腹拵(ごしら)えをさせてやるといい。それから陣中に焚火(たきび)と捨篝(すてかがり)を焚けるだけ焚いておけ。敵も物見を出して様子を窺(うかが)いにくるであろうが、この雪では陣容の詳細は摑めまい。捨篝を使って陣を大きく見せ、われらがまだやる気満々だと思い知らせてやるがよい。退陣を知っても、追撃を迷うぐらいにな」 捨篝とは、撤退の際に捨ててもよい篝籠(かがりかご)のことで、これを陣の周囲に広げると、夜に自陣を大きく見せる効果があった。 「ああ、わかった。有り難い策だ」 「若君に、御武運をお祈りしている、と伝えてくれ」 昌俊はそう言い残し、踵(きびす)を返す。 「おう……」 信方は少し逡巡(しゅんじゅん)した後に、声をかける。 「……昌俊」 「何だ?」 呼び止められた昌俊は、怪訝(けげん)そうな面持ちで振り返る。 「かたじけなし」 信方は深々と頭を下げた。 原昌俊は右手を小さく振り、無言で歩き始める。 何ということはない、陣馬奉行の役目を果たしただけだ。そんな仕草だった。 「では、方々。後ほど、兵を連れて若の陣へ。遠慮なく腹拵えさせて貰(もろ)うてから、評定(ひょうじょう)とまいりましょう」 信方は諸角虎定、原虎胤、跡部信秋の三人に言った。 「承知!」 三人は声を揃えて答えた。 殿軍の陣容も千五百弱と定まり、信方はその経緯を晴信に伝える。それから集まった兵たちを動員して焚火と篝火を熾(おこ)させ、炊き出しを行った。 あらかたの支度を終え、晴信と信方は将兵の前に立つ。 「皆、よく集まってくれた。まずは若君様からの御言葉を頂戴する。では、お願いいたしまする」 信方に促され、晴信は緊張した面持ちで前へ出る。