その顔を見て、晴信も小さな吐息を漏らす。それから、己の気持ちを切り替えるように、大きく深呼吸した。 信方はその様子を黙って見守っていた。 気息を整えた晴信が、躊躇(ためら)いがちに切り出す。 「……なあ、板垣。ひとつ訊いてもよいか?」 「何なりと」 「父上は……。なにゆえ、父上はあれほど、この身を嫌(きろ)うておられるのであろうか?」 寂しげな顔で呟いた晴信を見て、思わず信方は言葉を詰まらせる。それから、気を取り直して笑顔で答えた。 「嫌うておられるのではありませぬ。御屋形様はわざと若に試練を与えておられるのでありましょう。武田家のお世継ぎとして強くなってもらうよう、あえて甘やかさずにおられる。並の父親にできることではありますまい。板垣には、さように見えまするが」 「……そうは思えぬ。……父上は、次郎(じろう)に跡を継がせるおつもりなのではないか?」 その言葉を聞いた途端、信方の顔が紅潮する。 「若、何を申されまするか! 滅多なことを口に出されてはなりませぬぞ!」 突然、語気を荒らげた傅役に、晴信はたじろぐ。 「若、武門の世継ぎは、よほどの訳がない限り御長男がなるものと決まっておりまする。御屋形様もその理(ことわり)に則り、武田の惣領(そうりょう)となられました。それゆえ、御長男が自ら重責を放り出すが如きことを口に出されてはなりませぬ! われら家臣は、次郎様の傅役を仰せつかった甘利(あまり)でさえも、若が立派なお世継ぎとなることを信じて疑っておりませぬ。滅多なことを口になされまするな!」 信方はあくまで正論を貫き通そうとした。 「……つまらぬことを申して、すまぬ」 晴信は今にも哭(な)き出しそうな顔で俯(うつむ)く。 「若、しっかりと顔をお上げくだされ!」 信方が叱咤(しった)する。 「万が一、御屋形様がご変心なされたとしても、この板垣が一命を賭してお諫(いさ)めいたしまするゆえ、余計なご心配をなされまするな。今はこの初陣のことだけを考え、見事に殿軍を務めて甲斐へと戻りましょう」 「……わかった」 晴信が小刻みに頷く。 齢四十八の傅役は、齢四十二の父である信虎よりも遥かに大きな慈愛で晴信を包んでいる。鬱屈とした日々の中で信方の存在だけが大きな救いとなっていた。 それでも、晴信は自信を失いかけている。 ――あのような言葉が飛び出すということは、こたびの戦において理で割り切れぬ局面ばかりに遭遇し、若は不安の極におられるようだ。そして、訳もわからぬ重圧に押し潰されそうになっている。それを払拭するには、やはり殿軍の役目を無事に終えるだけでは足りぬやもしれぬ。 そう思い立ち、信方は次の動きに移る。