「余の殿軍に皆が力添えしてくれたことを、まことに感謝いたす。こたびの目標は、御屋形(おやかた)様をはじめとする将兵を見送った後、われら全員が揃って無事に新府へ帰還することだ。難儀な役目になると思うが、最後までよろしく頼む。では、仕事をする前に腹拵えだ。粥(かゆ)を用意してあるゆえ、存分に腹を満たし、軆(からだ)を暖めてくれ。その後、弓懸を二枚ずつ配るので、それを両手にはめ、得物を離さぬようにして警戒に当たってくれ。以上だ」 「おう!」 将兵たちは拳を突き上げ、気勢を上げる。 それから、少し早い昼餉(ひるげ)となった。 その間にも、他の隊は陣から去って行く。 朝方から小雪を舞い散らせていた雲は次第に厚みを増し、鈍色(にびいろ)の天蓋となって地上を覆っていた。午(ひる)過ぎだというのに、辺りは宵闇がおりたような昏(くら)さとなり、降りしきる雪へと変わっている。 この天候に足止めをくらい、武田勢の撤退に遅延が生じ始めた。 殿軍を除く隊が海ノ口城の周辺から遠ざかるまで動くわけにはいかず、まっ暗な夕刻を迎え、晴信は途轍(とてつ)もない不安を抱えながら篝籠から巻き上がる焔(ほのお)を見つめる。炊き出しの粥も、ほとんど喉を通らなかった。 ――天の神仏を恨むつもりはない。ましてや、退陣をお決めになった父上を恨むつもりは毛頭ない。それよりも、敵方が城から打って出てきた場合、わが一命を賭して食い止める覚悟をせねばならぬのだろうな。 覚悟を不動のものとするため、歯を食いしばって陣の端にある捨篝を見つめていたのである。 その時、ひときわ激しい焔をあげる篝籠に目がいく。夥(おびただ)しい火の粉が舞い上がり、薪の焦げた匂いが鼻孔をくすぐる。 すると、何かが揺らめく焔に近づいていく。 晴信の眼は、その姿に釘付けとなる。 ――な、なんだ、あれは……。 どこからか迷い込んできた極彩色の蛾に見えた。 蛾は立ち上る熱気に呑み込まれまいと舞いながら、しばらく篝籠の周りをゆらゆらと漂っていた。 しかし、ついに焔の輝きに幻惑され、火中へと吸い込まれる。あっという間に、禍々(まがまが)しい模様の羽が燃え尽き、蛾は焔の中で跡形もなく消えた。 ――いや、あり得ぬ! 考えてみれば、夏場ならまだしも、この季節に雪が降りしきる中、極彩色の蛾が飛ぶはずがない。 ――この身は幻を見たのか!? 晴信には紅蓮(ぐれん)の焔に吞み込まれる蛾の姿がはっきりと見えており、気がつくと両眼から涙が流れ落ちていた。 焔の煌(きら)めきに幻惑され、自ら飛び込んでいった哀れな虫けらの姿が、なぜか今の己と重なってしまったのである。