連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志13 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「……若、大丈夫にござりまするか?」
 すぐ後ろを登っていた信方が声をかける。
「……大丈夫……だとは言えぬ」
 晴信は息を切らせながら答えた。
「……手足が痺れ……冷気のせいで胸も痛い……声を出すのが辛い」
「……相すみませぬ。もう何もお訊ねしませぬゆえ、ご堪忍を。伊賀守の奴め……まったく……とんでもない経路を創りよって……」
 信方も苦しそうに吐き捨てる。
 その間も雪は氷結の度合いを増し、しんしんと降り注ぐ。
 眼前だけでなく、まるで五感のすべてまでが白い紗幕(しゃまく)にくるまれたようになり現実感を失いそうになる。無限に雪が舞い降ちる単調な景色の中に、いくつもの白い息だけが浮かんでいた。
 晴信の脳裡(のうり)からも余計な思考が飛び、われを忘れそうになる。延々と繰り返す悪夢の中にいるようだった。
 しかし、そのせいで登り始めた当初よりも、余計な力が抜けていた。
 登攀の緩慢な動きに身を任せている内に、無意識に動きのこつを摑み始めたからである。
 晴信は両手を握ったり開いたりし、感覚を失わないようにしていた。甲冑(かっちゅう)の内でうっすらと汗をかき始めており、毛沓の中も温かくなっている。深い呼吸を繰り返し、冷たい大気を鼻で吸い込み、ゆっくりとつぼめた口先から吐き出す。
 不思議なことだが、そんな規則正しい動きを繰り返していると、人は眼前の現実とはまったく関係ない内省を脳裡で始めてしまう。
 鼻孔に漂う雪の匂いと、要害山(ようがいやま)城へ母と一緒に登った時の北颪(きたおろし)の香りが重なり、言葉にならない寂寥(せきばく)を感じる。雪風景の中に揺蕩(たゆた)う哀愁には、要害山城で吹いていた空風(からかぜ)と同じく、記憶の奥底から滲み出てくるような感覚があった。
 やがて、それは逝去した最初の妻、朝霧姫(あさぎりひめ)の面影と重なる。
 ――なにゆえ、この身は今、かようなことを想い出しているのであろうか……。
 頭の片隅には、そんな思いもある。
 しかし、晴信は己の思念を止めることができない。まるで真っ白な夢幻の中に己の魂魄が漂泊しているようだった。
 ――おそらく、どんどん強くなる雪の匂いが、己の哀しみを呼び覚ましているのだろう……。
 静寂の中に少し速くなった己の鼓動だけが響いていた。
 同時に脳裡の片隅で「いつまで、こんなことが続くのだろう」と考えている。終着点の見えない行動に、その思考さえも麻痺し始める。不意に何もかも放り出し、雪の中で大の字になり、眠ってしまいたい衝動にかられた。
 ――だめだ! しっかりしろ、晴信。うぬはこの軍勢の大将なのだ。気をしっかりと持て!
 己に言い聞かせ、晴信は千切れそうになるほど口唇を嚙む。
 そうして、何とか正気を保とうとした。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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