「……若、大丈夫にござりまするか?」 すぐ後ろを登っていた信方が声をかける。 「……大丈夫……だとは言えぬ」 晴信は息を切らせながら答えた。 「……手足が痺れ……冷気のせいで胸も痛い……声を出すのが辛い」 「……相すみませぬ。もう何もお訊ねしませぬゆえ、ご堪忍を。伊賀守の奴め……まったく……とんでもない経路を創りよって……」 信方も苦しそうに吐き捨てる。 その間も雪は氷結の度合いを増し、しんしんと降り注ぐ。 眼前だけでなく、まるで五感のすべてまでが白い紗幕(しゃまく)にくるまれたようになり現実感を失いそうになる。無限に雪が舞い降ちる単調な景色の中に、いくつもの白い息だけが浮かんでいた。 晴信の脳裡(のうり)からも余計な思考が飛び、われを忘れそうになる。延々と繰り返す悪夢の中にいるようだった。 しかし、そのせいで登り始めた当初よりも、余計な力が抜けていた。 登攀の緩慢な動きに身を任せている内に、無意識に動きのこつを摑み始めたからである。 晴信は両手を握ったり開いたりし、感覚を失わないようにしていた。甲冑(かっちゅう)の内でうっすらと汗をかき始めており、毛沓の中も温かくなっている。深い呼吸を繰り返し、冷たい大気を鼻で吸い込み、ゆっくりとつぼめた口先から吐き出す。 不思議なことだが、そんな規則正しい動きを繰り返していると、人は眼前の現実とはまったく関係ない内省を脳裡で始めてしまう。 鼻孔に漂う雪の匂いと、要害山(ようがいやま)城へ母と一緒に登った時の北颪(きたおろし)の香りが重なり、言葉にならない寂寥(せきばく)を感じる。雪風景の中に揺蕩(たゆた)う哀愁には、要害山城で吹いていた空風(からかぜ)と同じく、記憶の奥底から滲み出てくるような感覚があった。 やがて、それは逝去した最初の妻、朝霧姫(あさぎりひめ)の面影と重なる。 ――なにゆえ、この身は今、かようなことを想い出しているのであろうか……。 頭の片隅には、そんな思いもある。 しかし、晴信は己の思念を止めることができない。まるで真っ白な夢幻の中に己の魂魄が漂泊しているようだった。 ――おそらく、どんどん強くなる雪の匂いが、己の哀しみを呼び覚ましているのだろう……。 静寂の中に少し速くなった己の鼓動だけが響いていた。 同時に脳裡の片隅で「いつまで、こんなことが続くのだろう」と考えている。終着点の見えない行動に、その思考さえも麻痺し始める。不意に何もかも放り出し、雪の中で大の字になり、眠ってしまいたい衝動にかられた。 ――だめだ! しっかりしろ、晴信。うぬはこの軍勢の大将なのだ。気をしっかりと持て! 己に言い聞かせ、晴信は千切れそうになるほど口唇を嚙む。 そうして、何とか正気を保とうとした。