「もったいなき御言葉にござりまする。それを肝に銘じ、失礼をばいたしまする」 挨拶を済ました虎昌が室(へや)を出る。送りに出た信方に神妙な面持ちで話しかけた。 「駿河守殿、少々、驚き申した」 「何がであるか」 「若君様のことにござりまする。初陣にて、あの御屋形(おやかた)様に殿軍(しんがり)を御所望なされ、しかも、わずかな一軍で敵城を奇襲し、それを落としたと聞いておりました。長い間、お会いしておりませなんだゆえ、どのようにお育ちになられたか、まったくわかりませんでしたが、前評判を聞いて勝手に想像だけを膨らませておりました。御屋形様に輪をかけたような荒々しき若武者に成長なされたのではないかと」 「それが実際に会うてみたならば、あまりの穏やかさに拍子抜けしたと?」 信方が顔をしかめながら訊く。 「滅相もありませぬ。拍子抜けしたなどとは、塵(ちり)ほども思うておりませぬが、正直に申せば、戸惑うておりまする」 「戸惑う?」 「はい。あの若さにして、あの聡明さ。決して虚勢を張ることなく、大きく局面を見ることのできる冷静さ。なんと申しますか、その……」 「そなたの言いたいことはわかる。されど、虎昌。あえて、直入に申してくれぬか」 「……御屋形様とは正反対の御気性ながら、大きな器を感じましてござりまする」 「さようか……」 信方は小刻みに頷く。 「……そなたの如(ごと)く、真っ直ぐに受け止めてくれる者が一人でも増えるのは喜ばしい。家中にはそれがわからず、口さがない風聞をほざく者もいる。あるいは、わかっていながら、若の才を見て見ぬ振りをしているのやもしれぬがな」 「何となく、小耳には挟んでおりまする……」 「ともあれ、さきほど若が申されたように、こたびは当家と今川家、北条の関係がより明らかになる戦いであろう。それに合わせ、東海や関八州にいる諸勢力の態度も鮮明になるはずだ。難しき局面も多かろう。くれぐれも用心してな」 「承知いたしました。否が応でも気持ちは昂ぶりますが、じっくり構えることにいたしまする」 飯富(おぶ)虎昌は両手で何度も己の頬を叩く。 その様を見て、信方は気合を入れるように後輩の背中に活を入れた。 こうして、晴信にとっての天文六年(一五三七)は新たなる戦いで幕を開けた。