「今川を嗣(つ)いだ義元殿が齢十九。甲斐の武田晴信が齢十七。われらが二十三だ。いずれ一門の総大将として相まみえる時が来るやもしれぬ。さほど遠くはない日にだ。それまで遅れを取らぬよう、互いに精進しよう」 「御意!」 「では、引き続き、万沢周辺の動きを探ってくれ」 「はっ!」 命じられた福島綱成は素早く踵(きびす)を返す。 ――武田晴信、風聞が話半分だったとしても侮れぬ。 氏康は宿敵出現の微かな予感を抱いていた。 だが、突然わき起こった河東での合戦は意外な展開を見せる。 万沢口に武田の於曽(おぞ)勢が布陣し、今川の御宿(みしゅく)友綱(ともつな)が案内役となった須走口の武田勢に武蔵の扇谷上杉の援軍が加わり、大方の布陣は決まった。 しかし、今川勢の本隊が富士川の対岸から動かないことを見て、北条氏綱は軍勢を三分し、同時に万沢口と須走口へ攻め寄せる。 須走口では飯富虎昌の率いる武田勢が奮闘し、北条勢を押し返した。ところが、万沢口の於曽勢が潰滅させられてしまう。さらに四月二十七日に河越(かわごえ)城の扇谷上杉朝興が病没したため、須走口の扇谷上杉勢は武蔵へ撤退してしまった。 これを知り、武田信虎も須走口から兵を退くことを決め、飯富虎昌は武功を上げて無事に甲斐へ戻った。 武田勢の撤退を確認した北条氏綱は間髪を入れず、武蔵の河越城へ攻め寄せ、まだ幼かった跡嗣ぎの扇谷上杉朝定(ともさだ)を松山城まで撤退させる。結果、北条家は念願の河越城を手に入れたのである。 そして、六月十四日に富士川で今川勢と北条勢の小競り合いがあった後、河東での戦いは膠着(こうちゃく)することになった。 北条、今川、武田に大きな損害はなかったが、河東一乱に首を突っ込んだ扇谷上杉家だけが大きな損失を被った。 これにより、関八州における北条の覇権はますます強まり、甲斐と東海を巻き込んだ戦いはさらなる混迷へと突入した。