北条家も武田と対立していたが、それは今川家との争いに端を発したことであり、まさか義元が手の平を返すように武田と組むとは思っていなかった。 そして、今年になり、今川家と武田家の婚姻が現実になると、激怒した北条氏綱は断交に踏み切った。その証(あかし)が今回の出陣である。 同行を命じられた氏康は複雑な思いを抱く。 それを察したのか、逆に瑞葉の方が今川の惣領(そうりょう)となった兄に対する怒りを吐露してきた。 『御屋形様と氏康様が、せっかく兄上に与力をなさったというのに、あろうことか、あの武田と手を組むとは、わたくしには信じられませぬ。お母様が側についていながら、なんという浅はかなことを。氏康様、もしも、お許しいただけるならば、瑞葉が駿府へと赴き、兄上とお母様をお諫(いさ)めいたしたく存じまする』 武門に嫁いだ女として、すでに覚悟を決めているようだった。 『御方、駿府へ戻りたいか?』 氏康の問いに、瑞葉の方は眦(まなじり)を決して言う。 『戻りたいのではありませぬ。本気で兄上とお母様をお諫めし、それでも聞いていただけぬのならば、縁を切って小田原へ帰ってまいりまする』 『さようか。余計な詮索をしてすまぬ……』 氏康は苦笑しながら頭を搔く。 『御方、その気持ちだけを受け取っておく。当家と今川家は、これより合戦となる。何が起きても堪えてくれ』 『はい。何があっても、わたくしは氏康様についていきまする』 瑞葉の方は氏康の瞳を見つめ、きっぱりと言い切った。 この一件に対する北条家の怒りは凄まじく、氏綱の率いる軍勢はすぐに河東の一帯を制圧した。 それというのも、この河東と呼ばれる富士の裾野十二郡は、元々、伊勢盛時(もりとき)(早雲庵宗瑞)が甥(おい)の龍王丸(たつおうまる)(今川氏親)と小鹿(おしか)範満(のりみつ)との家督争いを収め、姉の子を当主に据えた恩賞として今川家から贈られた土地だったからである。 京の奉公衆(ほうこうしゅう)であった盛時は、その後に明応(めいおう)の政変(一四九三)に関わって失脚し、都からの下向(げこう)を余儀なくされ、今川家の客将として河東の興国寺(こうこくじ)城へ入った。 そして、伊豆の討伐を行った早雲庵宗瑞は、小田原から相模を制覇する形で今川家から独立する。その際に、礼を込めてこの富士裾野十二郡を返還し、それからも盟友としての深い親交を続けた。 そういった意味では、今川家が北条を裏切ったならば、何を差し置いても、この河東だけは取り戻さねばならないという因縁深き土地だった。