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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)2 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

   九  

 白銀(しろがね)の冠を戴いた富士御嶽の雄姿を北側に見ながら、河東の一帯に三つ鱗(うろこ)の旗幟(きし)が翻っていた。
 峻峰(しゅんぽう)の上を流れる気流は早く、目映(まばゆ)いばかりの蒼天(そうてん)を純白の早雲が東へ流れていく。
 眼を細め、その様を眺める若武者が、吉原(よしはら)城に近い野戦陣の一角にいた。
 乱髪を下げた細い面と広い額が利発な印象を与え、双眸(そうぼう)には怜悧(れいり)な光を宿している。そして、その左頬には二筋の刀瘡(とうそう)が刻まれていた。
 その生々しい疵痕(きずあと)が若武者の容貌に凄みを与え、研ぎ澄まされた刃の冷たい感触を想起させる。それが北条家の嫡男、氏康(うじやす)だった。
 北条氏康は今年で齢(よわい)二十三となっていたが、六年前の初陣で危うく命を落としかける負傷をした。その戦は享禄(きょうろく)三年(一五三〇)の正月早々に扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)朝興(ともおき)が稲城(いなぎ)の小沢(おざわ)城と瀬田原(せたはら)の世田谷(せたがや)城へ攻め寄せたことに端を発していた。
 稲城の小沢城は先代の伊勢(いせ)早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)が山内上杉(やまのうちうえすぎ)顕定(あきさだ)を破った地でもあり、関東の一大勢力である上杉一門を敵とする北条家にとって何かと因縁の深い土地だった。北条家に江戸城を奪われてから扇谷上杉家は必死でこれを奪回しようとしており、その戦いが北条氏康の初陣となり、齢十七の時に大きな刀瘡が残るほどの疵を負ったのである。
 それから六年が経ち、今度は先代の伊勢早雲庵宗瑞と因縁のある別の場所へ出陣していた。それが河東と呼ばれる富士川東岸であり、相手はこれまで先代の頃から長らく盟友だった今川家である。
 ――当家が出陣せねばならぬ場所は、ほとんどが御爺様と縁のある土地となるが、その中でもここは特別だ。されど、相手がよりによって今川家とは……。
 氏康にとって今川家は盟友である以上に、二年前に嫁いできた正室、瑞葉(みずは)の方の実家だった。
 嫁の父は先々代の今川氏親(うじちか)であり、祖父の早雲庵宗瑞の主君でもあった。先代の今川氏輝(うじてる)や当代の義元(よしもと)は同じ母の寿桂尼(じゅけいに)から生まれた兄たちである。
 つまり、今川家は氏康にとって最も敵としたくない相手であった。
 実際、昨年の五月に起こった花倉(はなくら)の乱では栴岳(せんがく)承芳(しょうほう)(義元)に味方し、父の北条氏綱(うじつな)と一緒に玄広(げんこう)恵探(えたん)の残党を討伐するために駿東(すんとう)へ出張っていた。
 しかし、その直後に信じ難い風聞が流れてきた。
 なんと、長らく敵対していた武田家と今川家が盟を結んだというのである。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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