「ところで、北西が諏訪ということは、ここの東が甲斐の新府にござりまするか?」 「そのようだな。甲斐へも商いへ参るつもりか?」 「いいえ、こたびは諏訪から善光寺へ参るのが一番の目的にござりまする。また機会がありましたら、甲斐の新府へもお訪ねしたいと思うておりまする。お忙しいところ、有り難うござりました」 異形の者は深々と礼をした後、少し右脚を引き摺(ず)りながら諏訪へ向かって歩き始めた。 ――あのような場所で治水の話をしているとは、並の者たちではあるまい。しかも、上等な装束。もしかすると、歳(とし)の頃から見ても、雪斎(せっさい)様がお話しになっていた武田晴信殿やもしれぬ。ならば、傍らにいた眼光(がんこう)の鋭い漢(おとこ)が傅役(もりやく)の板垣殿。こちらも雪斎様のお話通りの風貌であった。 山本(やまもと)菅助(かんすけ)は独りごちて笑う。 ――甲斐は交互に日照りと水害を受け、他国にも増して飢饉(ききん)が酷(ひど)いと聞いている。そこで素早く治水に眼を向けているとは武田晴信、あの歳でなかなかの器量と見受けた。これは望外の掘り出し物であったやもしれぬ。諏訪の検分を早々に終わらせ、駿府に戻って雪斎様にご報告した方が良さそうだ。 異形の者、菅助は背負子(しょいこ)を大きく左右に振りながら先を急ぐ。 その一風変わった後姿が遠ざかるまで、三人は好奇の眼で見つめていた。 「目利きだけが取り柄のしがない行商?」 信方が呆(あき)れたような笑みを浮かべて呟(つぶや)く。 「……ふっ、あの眼光の鋭さで商人を騙(かた)るのは、少々無理がありましょう」 「駿河から来たと申したが、今川(いまがわ)家の縁の者であろうか」 晴信は怪訝(けげん)な面持ちで呟く。 「あの者は駿河からとは申しましたが、駿府(すんぷ)とは申しておりませぬ。北条(ほうじょう)の間者(かんじゃ)という疑いも捨てきれませぬ。されど、何か不審な動きをしていたわけではなく、商人の通行を無下に差し止めるわけにもまいりませぬゆえ、今は捨て置くしかありますまい。それよりも若、館へ急ぎ戻りましょう。御屋形(おやかた)様をお待たせするわけにはいきませぬ」 「ああ、さようだな」 晴信は輿石市之丞の方に向き直る。 「では、市之丞、近いうちにまた話をさせてくれ」 「はい。いつでも、お呼び立てくだされ」 「よろしく頼む。では板垣、まいろう」 晴信と信方は近くの木に繋いであった愛駒に跨(また)がり、急いで躑躅ヶ崎(つつじがさき)館へ戻った。