連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)16 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「ところで、北西が諏訪ということは、ここの東が甲斐の新府にござりまするか?」
「そのようだな。甲斐へも商いへ参るつもりか?」
「いいえ、こたびは諏訪から善光寺へ参るのが一番の目的にござりまする。また機会がありましたら、甲斐の新府へもお訪ねしたいと思うておりまする。お忙しいところ、有り難うござりました」
 異形の者は深々と礼をした後、少し右脚を引き摺(ず)りながら諏訪へ向かって歩き始めた。
 ――あのような場所で治水の話をしているとは、並の者たちではあるまい。しかも、上等な装束。もしかすると、歳(とし)の頃から見ても、雪斎(せっさい)様がお話しになっていた武田晴信殿やもしれぬ。ならば、傍らにいた眼光(がんこう)の鋭い漢(おとこ)が傅役(もりやく)の板垣殿。こちらも雪斎様のお話通りの風貌であった。
 山本(やまもと)菅助(かんすけ)は独りごちて笑う。
 ――甲斐は交互に日照りと水害を受け、他国にも増して飢饉(ききん)が酷(ひど)いと聞いている。そこで素早く治水に眼を向けているとは武田晴信、あの歳でなかなかの器量と見受けた。これは望外の掘り出し物であったやもしれぬ。諏訪の検分を早々に終わらせ、駿府に戻って雪斎様にご報告した方が良さそうだ。
 異形の者、菅助は背負子(しょいこ)を大きく左右に振りながら先を急ぐ。
 その一風変わった後姿が遠ざかるまで、三人は好奇の眼で見つめていた。
「目利きだけが取り柄のしがない行商?」
 信方が呆(あき)れたような笑みを浮かべて呟(つぶや)く。
「……ふっ、あの眼光の鋭さで商人を騙(かた)るのは、少々無理がありましょう」
「駿河から来たと申したが、今川(いまがわ)家の縁の者であろうか」
 晴信は怪訝(けげん)な面持ちで呟く。
「あの者は駿河からとは申しましたが、駿府(すんぷ)とは申しておりませぬ。北条(ほうじょう)の間者(かんじゃ)という疑いも捨てきれませぬ。されど、何か不審な動きをしていたわけではなく、商人の通行を無下に差し止めるわけにもまいりませぬゆえ、今は捨て置くしかありますまい。それよりも若、館へ急ぎ戻りましょう。御屋形(おやかた)様をお待たせするわけにはいきませぬ」
「ああ、さようだな」
 晴信は輿石市之丞の方に向き直る。
「では、市之丞、近いうちにまた話をさせてくれ」
「はい。いつでも、お呼び立てくだされ」
「よろしく頼む。では板垣、まいろう」
 晴信と信方は近くの木に繋いであった愛駒に跨(また)がり、急いで躑躅ヶ崎(つつじがさき)館へ戻った。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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