第四章 万死一生(ばんしいっしょう)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「……晴信様、実はお伝えしておかねばならぬことが」
しばらくして吐気が治まると、掠れた声で麻亜が言う。
「何だ」
「……母が申すには……ややこが……授かったのではないかと」
「ややこ?……ならば、先ほどのは、つわりか?」
「はい、おそらく……。このところ、ずっと」
「でかしたぞ、麻亜」
晴信は膝立ちになり、拳を握り締める。
「……晴信様」
「何よりの朗報だ」
「されど……」
「心配いたすな。男(お)の子(こ)ならば、そのまま諏訪の名跡を嗣(つ)げばよい。女子(おなご)ならば、家中から良き婿を取り、夫婦で諏訪の名跡を嗣げばよい。いずれにせよ、余の血脈に繋(つな)がる者が諏訪を嗣げば、万事がうまくいく」
「まことにござりまするか?」
「ああ、そなたに嘘などつかぬ。約束する。余はそなたらを守り通す。いまは軆を大事にし、無事に子を産むことに専念せよ。余はすぐにけじめをつける」
晴信は決然と言い放った。
「……麻亜は嬉しゅうござりまする」
「余もだ。まさか、一夜でふたつも願いが叶うとはな」
晴信は麻亜を抱きしめ、眠りにつくまで優しく頭を撫(な)で続けた。
翌朝、すぐに傅役の処(ところ)へ向かう。
「……お早うござりまする。いかがなされました、若?」
信方は驚きながら主君を居室に迎え入れる。
「板垣、折り入って話がある」
「はい」
「あえて直入に申すが……麻亜にややこができたようだ」
晴信の言葉に、信方が眼を見張る。
「……麻亜殿が御懐妊?」
「そのようだ。ゆえに、すぐけじめをつけたい」
「わかりました。ならば、禰津の御寮人として正式に迎え入れねばなりますまい。お膳立てはわれらでいたしまするが、三条の御方様へのお話は、やはり若からでないと筋が通りませぬ」
「わかっている。御方には、余から話をする」
「されど、御懐妊の件は、まだ伏せておいた方がよろしいかと。それがしもお聞きしなかったことにいたしまする。諏訪での執務を円滑にするため、御側室を迎えるということで通しまする」
「さようか。ならば、そなたの言う通りにしよう」
「まずは御方様の侍女頭を説得せねばなりますまい」
そうは言ってみたものの、信方の脳裡には常磐の苦虫を嚙み潰したような形相が浮かんでいた。
晴信が禰津家から側室を迎えるという話はすぐに進められた。
信方が数度にわたり侍女頭の常磐を説得してから、晴信が三条の方に話を打ち明ける。二人の女人は内心、忸怩(じくじ)たる思いを抱えながらも、惣領(そうりょう)の決定には従うしかなかった。
その結果、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館の裏方が騒然とする中、正式な輿入(こしい)れは春先の出兵が終わった後ということに決められた。
そして、暦は変わり、卯月(四月)となる。
この月の半ば過ぎ、出兵を間近に控えた甲斐と信濃だけではなく、坂東(ばんどう)から東海までを揺るがす大事件が起こった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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