よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 すべてに毒を仕込んだ陥穴(おとしあな)、霞網(かすみあみ)、虎挟み、仕掛矢、踏抜き釘など、掛かればすぐに絶命に至る罠(わな)を、いかにも軒猿が通りそうな旭山城の裏側に張り巡らせてあった。
「では、城中に武田菱の旗幟を掲げさせまする」
 香坂昌信は一礼して走り去った。
 この日、善光寺平の旭山城に、長尾景虎に対する叛旗(はんき)が翻った。
 景虎は北条(きたじょう)城の攻略に手こずっていたが、二月の中旬になり、やっと北条高広(たかひろ)を降伏させていた。だが、この叛臣を処罰するかと思いきや、忠誠を誓うことを条件に再び召し抱えてしまったのである。
 晴信はそのことを跡部(あとべ)信秋(のぶあき)の諜知(ちょうち)によって知った。
 ──北条高広はそれほど有能なのか? それとも、ただ景虎が甘いだけなのか?……どちらにせよ、謀叛(むほん)が北条だけでは終わらぬことを知り、今頃、臍(ほぞ)を嚙(か)んでいることであろうて。
 当然のことながら、春日山城へ戻った長尾景虎の耳には、善光寺の別当職であった栗田寛久謀叛の一報が届いていた。
 そんな中、馬場信房の軍勢が三月十八日に武居城を進発し、木曾勢の千村(ちむら)俊政(としまさ)が守る贄川城を落とす。その一報が伊那宿の春日城へ早馬で届けられ、保科正俊が率いる高遠勢が権兵衛道を使って鳥居(とりい)峠の背後に廻(まわ)り込もうとした。
 鳥居峠まで出張っていた木曾義康(よしやす)はこの挟撃に驚き、一戦も交えずに木曾福島(きそふくしま)城へと逃げ帰る。
 これを見た馬場信房はさらに贄川城から進軍し、鳥居峠の藪原(やぶはら)砦を奪取する。木曾谷の攻略は晴信の描いた策通りに進んだ。
 そして、すべてを仕掛け終えた晴信は、息子の武田義信(よしのぶ)を伴い、川中島へ向かう。六千余の武田勢が小県(ちいさがた)から川中島へと進み、犀川(さいがわ)の南岸に布陣した。
 ──余にとっては組木細工の如き精緻(せいち)な謀計だったが、仕掛けられた景虎は己の鼻面を摑(つか)まれて振り回されたような気分であろうな。これが武田の庭先に土足で踏み入った報いぞ。
 晴信は最初の戦いで翻弄された意趣を倍にして返すつもりだった。
 まずは川中島の犀川を境界とし、敵陣側に旭山城という楔(くさび)を打ち込んだ。
 越後勢が犀川北岸に陣を構えたとしても、武田の本隊を睨(にら)みつつ、旭山城を攻めなければならない。武田勢が渡河してくれば、城攻めに廻った越後勢は挟撃されることになる。
 あるいは、越後勢が犀川を渡河して戦おうとすれば、旭山城の武田勢に横腹を突かれるという難しい形になっていた。
 それこそが晴信の狙いだった。
 ──あとは長尾景虎を挑発しながら、じっくりと渡河を待てばよい。これが武田の戦構えぞ。存分に挑んでくるがよい。
 そう思いながら、晴信は本陣のある大堀(おおぼり)館で来たるべき時を待った。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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