よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   五十一 

 善光寺平の北側から、夥(おびただ)しい蹄音(あしおと)が響いてくる。
 越後の春日山城を発し、北国(ほっこく)街道を南下してきた越後勢の先遣隊だった。
 高梨(たかなし)政頼(まさより)、村上(むらかみ)義清(よしきよ)、小笠原(おがさわら)長時(ながとき)などの北信濃(きたしなの)勢が善光寺の脇にある城山へと登っていく。
 騎馬隊の後には、長槍を担いだ足軽隊が一糸乱れぬ足取りで進み、兵粮(ひょうろう)を積んだ馬を引く手明(てあき)隊が続いた。
 その馬蹄(ばてい)の音に誘われ、門前町の住人たちが美装の総大将を見ようと、恐る恐る沿道へ集まってくる。
 越後勢は神速を尊び、他軍が一日十里を行くならば、自分たちは十五里を目指して走ると言われていた。
 その噂(うわさ)に違(たが)わず、先陣の本庄(ほんじょう)実乃(さねより)、二陣の斎藤(さいとう)朝信(とものぶ)などの軍勢が濛々(もうもう)たる土煙をあげて現れる。
 そして、ついに「毘(び)」と「龍」の一文字旗を靡(なび)かせて旗本衆が到着した。
 その中央には、放生月毛(ほうじょうつきげ)と呼ばれる象牙色の馬体が見える。真紅の胸懸(むながい)と鞦(しりがい)を下げた見事な騎馬であり、誰にでも一目で名馬とわかる風格を備えていた。
 金泥(きんでい)で雷模様の細工が施された漆鞍(うるしくら)に跨(またが)っていたのは、まごうかたなき越後勢の総大将だった。
 馬上の長尾景虎は、紺糸緘(こんいとおどし)の当世具足に萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣(どうかたぎぬ)を羽織っている。背には毘の一文字が金糸で刺繍(ししゅう)されていた。
 金の星兜(ほしかぶと)にはあえて前立(まえたて)を付けず、頭部全体を白妙(しろたえ)の練絹(ねりぎぬ)で行人包(ぎょうにんづつみ)にしている。腰元には白銀(しろがね)の鞘(さや)に収められた名刀、小豆長光(あずきながみつ)を佩(は)いていた。
 その姿を遠巻きに見ていた民が小さく手を振る。
 しかし、景虎は視線さえ動かさない。
 その軆(からだ)には陽炎(かげろう)の如き闘気がまとわりついており、行人包からのぞく半眼はどこか遠くを眺めるようだった。鞍上(あんじょう)の主人に倣(なら)うが如く、放生月毛の愛駒までが漆黒の瞳を遥か遠方へ向けているように見える。
 それが天文二十四年(一五五五)四月二十五日のことだった。
 長尾景虎が旗本衆に囲まれて城山の陣に入っていくと、直江(なおえ)景綱(かげつな)が率いる中備え、柿崎(かきざき)景家(かげいえ)の後備えなどの譜代の重臣が続き、最後には荷駄隊を守る殿軍(しんがり)の甘粕(あまかす)景持(かげもち)が到着した。
 沿道の見物人の中には、当然のことながら武田方の間者(かんじゃ)、透破(すっぱ)の者が紛れ込んでいる。美装の軍勢を歓迎する振りをしながら、しっかりと越後勢の数を目算していた。
 越後の総勢はざっと見渡したところで、ゆうに五千を超えている。おそらくは八千弱というところではないかと思われた。
 それだけではなく、越後の忍びである軒猿も、先遣隊より先にこの善光寺平に潜んでおり、細作(さいさく)に出ている甲斐の透破らしき者に目配りしている。怪しげな動きをする見物人を探し、どこへ行くかを確かめようとしていた。
 すでに水面下で、両者の戦いは始まっていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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