連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)18 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「良い評判しか聞こえてこないからにござりまする。聡明にして思慮深く、戦場(いくさば)にあっては心胆太く、骨硬し。若輩でありながら、すでに大器の片鱗(へんりん)あり。よしんば、それが風評に過ぎぬとしても、初陣の時の晴信殿をさように見立てた者がいることに驚きを禁じえませぬ。義元(よしもと)様もその見立てにいたく興味を示され、是非とも晴信殿と深く誼(よしみ)を通じてみたいと仰せになられておりまする」
 雪斎はこともなげに言った。
 ――おそらく、その見立てをしたのは、岐秀(ぎしゅう)禅師なのであろう。
 信方はそう思っていた。
 もし、その想像が当たっているとすれば、今川義元と雪斎は岐秀元伯(げんぱく)の見識を深く信頼しているということだった。
「……義元殿の御言葉は、まことにありがたし。……しかれども、当方の内実は、理詰めだけで変えてゆけるほど簡単なものではありませぬ。家中における御屋形様の御意嚮(ごいこう)は絶対であり、それに対して物申すことは憚(はばか)られ、逆らえば処罰を免れませぬ。それを怖れておらぬと言えば、嘘になりまする。正直に申せば、そなたの話を預かり、この身がどう処すべきかということも、すぐには思いつきませぬ」
 信方の返答に、雪斎は眉をひそめる。
「漫然と待つだけでは状況が改善いたしませぬ。主が危うい立場に置かれても、そなたはそれでもよいと」
「……ただ手をこまぬいているつもりはありませぬ。されど、今は突然のことゆえ、思案が追いつかず、何の策も浮かびませぬ。……どうにか手を考え、御屋形様にお考えを変えていただくにしても、相応の時が必要かと」
 実際、信方は主君の信虎が他家に晴信の廃嫡を公言したという事実をどう受け止めればよいかわからずに混乱していた。
 当惑しながら俯(うつむ)く晴信の傅役に、雪斎は冷ややかな視線を向ける。 
「板垣殿、こちらがお伝えすべきと思うた事柄は、包み隠さずにお伝えいたしました。無礼なことも申し上げたかもしれませぬが、それも火急の用件であったがゆえのこと、ご容赦くだされ」
「いや……」
「せっかくこうして繋がりもできましたゆえ、今後も連絡を取り合いませぬか。何かありましたなら岐秀に伝えていただければ一報が届くようにしておきまする。こちらも火急の件はこの長禅寺(ちょうぜんじ)を通じてお伝えいたしまする」
「わかりました。よろしくお願いいたしまする」
 信方にはそう答えるしか術(すべ)がなかった。
「されど、領国の立て直しと家中の統一ほど難しいものはない。義元様の御側に仕え、つくづくそのように感じまする」
 雪斎は独言のように呟く。
「信虎殿も御隠居なさればよいのに。領国の立て直しなど煩わしき仕事はすべて、理詰めでものを考える晴信殿とご家臣の方々に任せてしまえば、御自身はゆるりと大好きな御酒を愉(たの)しまれるだけでよいのだから。板垣殿、お諫(いさ)めが難しいのならば、いっそ御隠居をお薦めするというのはいかがか?」
 その問いかけに、信方が眼を剥(む)く。
「それではまるで謀叛(むほん)を持ちかけられているように聞こえまするが」
「またまた、ご冗談を。さようなつもりは毛頭ござりませぬ。それがしが申し上げたのは、あくまでも御隠居の話。恵(けい)姫様のおられる駿府(すんぷ)にも別亭などを持ち、冷泉(れいぜい)様を招いた歌会を甲斐と駿府で交互に開きながら左団扇(ひだりうちわ)で御酒を嗜まれればよろしい。まるで夢の如き日々ではありませぬか」
 雪斎が眼を細め、薄く笑う。
 その顔を、信方は鋭く見つめる。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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