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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)18 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 ――いったい、いかなる意味か?……もしも、御屋形様が御隠居なされた場合、今川家がその片棒を担いでくれるということなのか。……あるいは、この身に反逆を煽(あお)っているのか。いずれにしても、最後にかようなことを申すとは、喰えぬ漢だ。
「……ならば、娘婿の義元殿から是非に駿府の別亭のことなど持ちかけていただきとうござりまする。小諸(こもろ)築城の代わりに」
「はは、これは参りました。されど、われらでは甲斐の餒虎(だいこ)に鈴は付けられませぬ」
 雪斎は声を出して笑った。
「では、板垣殿。それがしは急ぎ駿府へ戻らねばならぬので、これにて失礼いたしまする。晴信殿には宜しくお伝えくだされ。どうか、お気をつけて」
「諸々(もろもろ)のご忠告、かたじけなし。無駄にせぬよう、よく考えてみまする」
 信方は深く頭をさげた。
 こうして二人の密談は終わった。
 新府へ戻る道々、信方の両肩に太原(たいげん)雪斎の言葉が重くのしかかる。
 ――この話を、いったいどのように若へお伝えすればよいのか……。いや、そもそも、若に伝えるべき話なのか?
 廃嫡。その話を聞かされた衝撃が頭の芯に残っており、考えがまとまらない。思案が粉々の破片となって渦巻くだけで、手綱を煽(あお)る度に混乱だけが増した。
 ――とにかく、今は考えようとしても無駄だ。少しでも早く戻ろう。その上で、御屋形様がお戻りになるまでに、何かしらの考えをまとめねば……。
 いったん考えることをやめ、信方は愛駒を駆った。
 一方、遠駆けを終えた晴信はすでに屋敷へ戻っており、信繁や家臣たちと夕餉(ゆうげ)の席につき、そこには母の大井(おおい)の方の姿もあった。
 三条(さんじょう)の方が用意した膳が運ばれ、久方ぶりに兄弟の顔が揃った団欒(だんらん)が始まる。
「信繁、一献どうだ」
 晴信が酒の入った片口を持ち上げて訊ねた。
 その問いに、信繁は黙って俯く。
「どうした?……そなたも元服の儀の時に酒始めは済ましているであろう」
 怪訝そうな面持ちで、晴信が言う。
「……酒が……酒があまり好きではありませぬ」
 信繁が答える。
「そうなのか」
「……父上の御相伴に与(あずか)り、口にはしてみましたが……未だに慣れませぬ」
 信繁が酒の味に馴染めないというのは本当だったが、それ以上に、泥酔してもなお炯眼(けいがん)を見開いて声を荒らげる父親が嫌だったのである。己も酒に吞まれてしまうのではないかという恐怖が盃を手にすることを逡巡させていた。
「ならば、無理をして吞むことはない。それがしも今宵はやめておこう。これは甘利(あまり)と飯富(おぶ)に任せておけばよい」
 晴信は何となく弟の本心を察し、明るく笑って見せる。
 信繁も顔を上げ、安堵の表情となった。
 それから、和やかな夕餉が始まる。晴信と信繁にとっては、失われた時を少しだけ穴埋めできるような機会であった。
 しかし、この兄弟の予測できぬところで事態が動き始めていることを、二人は知る由もなかった。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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