連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)21 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「……怖いことを、笑顔で申すな」
 今川義元は顰面(しかみづら)で呟く。
「この世はなるようにしか、なりませぬ。ああ見えて、信虎殿も混乱していた甲斐を統一した、ひとかどの御方ゆえ、まだまだ当家のために生きていただきとうござりまする。とりあえず、われらは朗報を待つといたしましょう」
「ああ、そうだな」
 今川義元は頷(うなず)いた。
「では、それがしは板垣殿に良い返事を送っておきまする」
 太原雪斎は小さく頭を下げる。
 二人の密談はそれで終わった。
 何も知らない武田信虎は酔いに任せ、今川舘の離れの寝所で大鼾(おおいびき)をかいていた。
 夜更け過ぎにもかかわらず、太原雪斎は腹心の岡部(おかべ)久綱(ひさつな)を呼びつける。
「いよいよ甲斐が動くぞ、久綱」
「まことにござりまするか、雪斎殿!?」
「甲斐の板垣殿から協力の要請があった。それゆえ、そなたにはこれを持ち、巨摩(こま)郡の長禅寺(ちょうぜんじ)へ行ってくれぬか」
 太原雪斎は一枚の書状を差し出す。
 それを手に取り、岡部久綱は素早く文面に眼を走らせる。
「こ、これは……。まことに、かようなことを約して大丈夫にござりまするか?」
「致し方あるまい。花倉(はなくら)殿の一件以来、当家の結束もまだ盤石ではない。今しばらく足許を固めるための時が必要であり、そのためには甲斐と相模(さがみ)が収まっていてくれた方がよい。交渉の相手も理屈の通じぬ餒虎(だいこ)より、理に明るい晴信殿の方が話がしやすかろう。今の情勢では北条家も窮状にあり、近いうちに氏康(うじやす)殿が当家になびいてくる。そこまでの辛抱だ」
「なるほど。されど、甲斐はまことに晴信殿の下でまとまるのでありましょうか。もしも、対立が高じて内紛にでもなれば、かえって当家に悪い影響を与えませぬか」
「その時は、その時だ。晴信殿が首尾良く家臣をまとめ、甲斐を立て直せば、それでよし。もしも、それが能(あた)わず、甲斐が再び分裂して争い始めたならば、信虎殿を担ぎ出し、今川家が甲斐を制するまでよ」
「な、なんと……」
 岡部久綱は驚嘆する。
 ─二重、三重にまで張り巡らされた鬼謀……。雪斎殿はそこまでのことを見越し、策を練られておったのか。
 太原雪斎が不敵な笑みを浮かべながら言う。
「信虎殿が駿府を出立するのは三日後となる。それゆえ、そなたはすぐに長禅寺へ出向き、できれば板垣殿と直に話をし、より詳細に内実を摑んで戻ってくれ」
「承知いたしました」 
「とにかく、これで事は始まらざるを得ぬ。さて、鬼が出るか、蛇が出るか。はたまた、断じて行えば鬼神も之(これ)を避くのか。始まってみなければ、わからぬが、今川家にとっては甲斐の状況に深く関与できていれば、それでよい。せいぜい晴信殿の奮闘に期待して朗報を待つとしよう」
 太原雪斎に命じられた岡部久綱は、すぐに巨摩郡の長禅寺へ向けて出立する。 
 そこで板垣信方と落ち合い、今川家の意向が伝えられた。
 それを書面で確認した信方は、満を持して動き始めた。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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