「……怖いことを、笑顔で申すな」 今川義元は顰面(しかみづら)で呟く。 「この世はなるようにしか、なりませぬ。ああ見えて、信虎殿も混乱していた甲斐を統一した、ひとかどの御方ゆえ、まだまだ当家のために生きていただきとうござりまする。とりあえず、われらは朗報を待つといたしましょう」 「ああ、そうだな」 今川義元は頷(うなず)いた。 「では、それがしは板垣殿に良い返事を送っておきまする」 太原雪斎は小さく頭を下げる。 二人の密談はそれで終わった。 何も知らない武田信虎は酔いに任せ、今川舘の離れの寝所で大鼾(おおいびき)をかいていた。 夜更け過ぎにもかかわらず、太原雪斎は腹心の岡部(おかべ)久綱(ひさつな)を呼びつける。 「いよいよ甲斐が動くぞ、久綱」 「まことにござりまするか、雪斎殿!?」 「甲斐の板垣殿から協力の要請があった。それゆえ、そなたにはこれを持ち、巨摩(こま)郡の長禅寺(ちょうぜんじ)へ行ってくれぬか」 太原雪斎は一枚の書状を差し出す。 それを手に取り、岡部久綱は素早く文面に眼を走らせる。 「こ、これは……。まことに、かようなことを約して大丈夫にござりまするか?」 「致し方あるまい。花倉(はなくら)殿の一件以来、当家の結束もまだ盤石ではない。今しばらく足許を固めるための時が必要であり、そのためには甲斐と相模(さがみ)が収まっていてくれた方がよい。交渉の相手も理屈の通じぬ餒虎(だいこ)より、理に明るい晴信殿の方が話がしやすかろう。今の情勢では北条家も窮状にあり、近いうちに氏康(うじやす)殿が当家になびいてくる。そこまでの辛抱だ」 「なるほど。されど、甲斐はまことに晴信殿の下でまとまるのでありましょうか。もしも、対立が高じて内紛にでもなれば、かえって当家に悪い影響を与えませぬか」 「その時は、その時だ。晴信殿が首尾良く家臣をまとめ、甲斐を立て直せば、それでよし。もしも、それが能(あた)わず、甲斐が再び分裂して争い始めたならば、信虎殿を担ぎ出し、今川家が甲斐を制するまでよ」 「な、なんと……」 岡部久綱は驚嘆する。 ─二重、三重にまで張り巡らされた鬼謀……。雪斎殿はそこまでのことを見越し、策を練られておったのか。 太原雪斎が不敵な笑みを浮かべながら言う。 「信虎殿が駿府を出立するのは三日後となる。それゆえ、そなたはすぐに長禅寺へ出向き、できれば板垣殿と直に話をし、より詳細に内実を摑んで戻ってくれ」 「承知いたしました」 「とにかく、これで事は始まらざるを得ぬ。さて、鬼が出るか、蛇が出るか。はたまた、断じて行えば鬼神も之(これ)を避くのか。始まってみなければ、わからぬが、今川家にとっては甲斐の状況に深く関与できていれば、それでよい。せいぜい晴信殿の奮闘に期待して朗報を待つとしよう」 太原雪斎に命じられた岡部久綱は、すぐに巨摩郡の長禅寺へ向けて出立する。 そこで板垣信方と落ち合い、今川家の意向が伝えられた。 それを書面で確認した信方は、満を持して動き始めた。