「もともと無理筋の戦(いくさ)でありましたからな」 飯田虎春がぼやく。 「虎春、今さら、それを申してどうなる!」 昌勝が一喝する。 「……申し訳ござりませぬ」 「とにかく、御屋形様にご報告する前に、われらの総意を固めておかねばならぬ」 荻原昌勝の言葉に、皆は思案顔となり、一様に黙り込んだ。 この年、天文四年(一五三五)七月五日、武田信虎は側近たちの心配をよそに駿河への戦を仕掛けた。 ここ数年、甲斐では不作が続き、飢饉(ききん)に見舞われた上、昨年の夏は疫病が流行している。国内は疲弊していたが、信虎は「それは隣国も同じゆえ、今が攻め時」と嘯(うそぶ)き、年末に押立公事(おしたてくじ)と未定の役に関する定書(さだめがき)を発した。急な徴発により、領民の暮らしは絞りつくしたぼろ雑巾のようになったが、信虎は一顧だにせず出陣した。 まずは南西の国境を越えた駿河の富士郡鳥波(静岡県芝川町)へ侵攻し、周囲に放火して略奪を行う。これを知った今川氏輝が七月二十七日に駿府を出立し、両軍が万沢口で睨み合うことになった。 対陣は二十日ほど続き、この日、八月十七日になって都留郡の勝沼信友から北条家の軍勢が動いたという一報が届けられた。 戦を始める前から、駿河を攻めれば今川氏輝が小田原の北条氏綱に援軍を要請することは想定の内だった。しかし、北条勢が二万にも及ぶほどの大軍に膨れ上がるとは思ってもみなかった。 このところ、北条家は伊豆と相模を固め、武蔵へも触手を伸ばし、相当の力をつけていた。四公六民の年貢を謳(うた)っているためか、近隣から民の流入が続き、それが領内の開墾や生産に結びつき、結果として潤沢な兵力も得られている。嫡男の氏康(うじやす)も齢(よわい)二十一となり、父の氏綱を補佐するようになった。 だが、信虎は北条家の実力を過小に評価していた。 己が駿河に出張っても、都留郡にいる勝沼信友と小山田信有の軍勢二千五百ほどで北条の侵攻を止められるとたかをくくっていたのである。 それを見越したかのように、北条氏綱は大軍で侵攻を開始し、武田勢にとっては抜き差しならない事態となった。 「北条勢はこの万沢口にいる今川勢よりも遥かに多い。本来ならば、『新府が心配ゆえ、すぐに退陣すべき』と御屋形様に申し上げるところなのだが、その場合、殿軍(しんがり)を受け持つ者を決めておかねばならぬ。今川の追撃を阻止するためにな」 荻原昌勝が蓼(たで)の葉を嚙んだような面持ちで一同を見廻す。 しかし、誰も名乗り出る者はいない。少勢で殿軍を受け持てば全滅することもあり得るため、安易に手を挙げるわけにはいかなかった。 場は自然と互いの顔色を探るような気配になる。 「……常陸守殿、ここはやはり、われら総軍で今川氏輝を叩いてから、次の動きを決めた方がよくありませぬか。干戈(かんか)も交えず、われらが黙って退けば、相手が図に乗るだけにござりまする」 飯田虎春が交戦を主張する。