連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志4 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 躑躅ヶ崎館はわずかな兵で守りを固め、強ばった空気の中で一夜が明けた。
 一方、万沢口では夜更け過ぎに武田勢が今川の陣を急襲し、火を放つ。これを契機に、両軍は激しい戦闘を繰り返す。武田勢が先手を取ったのだが、今川勢の反撃も凄まじく、勝敗がつかないまま日没を迎えた。
 それが八月十九日のことであり、二十一日まで両軍が睨み合いを続ける。その翌日には信虎本隊の帰還が早馬で新府と都留の勝沼信友に通達された。
 ところが、二十二日の夜になり、突然の悲報が新府にもたらされる。
 その日、二万四千ともいわれる大軍で北条勢が、南都留郡の山中(山中湖)になだれ込む。
 これに対し、都留の武田勢が二千余の兵で迎撃するが、勝沼信友をはじめとして小山田有誠(ありまさ)、小林左京亮(さきょうのすけ)らの将と数百の兵を失うという大敗を喫してしまったのである。
 この一報に、新府は震撼した。
 ――次はこの新府に北条勢が押し寄せてくる。いよいよ、切羽詰まったか……。
 信方はそう思いながら、一睡もせずに夜を徹して警戒した。
 しかし、北条勢が北上したという一報はもたらされず、なんと二十四日には小田原へ引き揚げたというのである。
 それを聞き、信方は狐につままれたような心地になる。
 実は扇谷上杉朝興が武蔵から相模に侵攻したため、それを知った北条氏綱が急遽(きゅうきょ)、小田原城へ引き返したのである。しかし、信虎がその策を仕掛けていたことを新府に伝えていなかったため、信方にはまったく訳がわからなかった。
 北条勢が都留から撤退した直後に、万沢から退陣してきた信虎の本隊が新府へ帰還した。
 勝沼信友が討死したことを聞き、信虎は大きく舌打ちする。
「あれほど、まともにぶつかるなと申し付けておいたにもかかわらず、なにゆえ命令を守れぬのか……」
 弟の死を悼(いた)むというよりも、己の命令を守れなかった無能さを謗(そし)るような口振りだった。
「それにしても、朝興も動くのが遅すぎる。やはり、使えぬな、扇谷上杉は。どうやら、別の手を考えねばならぬようだな」
 そう言ったきり、信虎は室へ籠ってしまった。
 家宰の荻原昌勝が討死した者たちの葬儀に奔走するしかなかった。
 無理を押して出陣した戦は、大した戦果も上げられず、結局は都留郡で守りの要(かなめ)になっていた勝沼信友と小山田衆を失うという惨憺(さんたん)たる結果に終わった。
 甲斐の国内に疲弊をもたらしただけだったが、信虎は悪びれる様子もなく、次の一手を繰り出す。それは家臣の誰もが驚くような奇策だった。
 九月十七日、信虎は自ら諏訪(すわ)へ出向き、なんと堺川(さかいがわ)で長年の敵であった諏訪頼満(よりみつ)と対面したのである。二人は話し合いをした後、諏訪大社の宝鈴が鳴らされる中、和睦の書面に署名した。
 これにより当面、西の信濃に脅威はなくなった。
 その九月の下旬に、扇谷上杉朝興は相模の中郡(なかごおり)から鵠沼(くげぬま)、平塚、大磯の一帯を焼き払うが、北条氏綱の反撃に遭い、武蔵に撤退した。
 その報復として、今度は十月十三日に北条氏綱が、扇谷上杉朝興の本拠である河越城に攻め寄せた。

 


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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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