雄大な富士山を挟み、万沢と都留に分かれた武田勢の緊張が高まる中、勝沼信友から新府へも早馬が出される。 「北条勢、二万近くの軍勢で都留へ進軍中。注意されたし」 その一報を躑躅ヶ崎(つつじがさき)館で受けとった板垣(いたがき)信方(のぶかた)は仰天した。 ――今川を攻めれば、北条が動くことはわかっていたが、まさか二万もの大軍になるとは……。都留には、敵方の十分の一の兵しかいないはずだ。どうする!? 信方は己の頬を両手で叩く。 ――とにかく、若にこのことをお伝えし、眼を覚ましてもらわねば……。 朝霧姫が亡くなってから、太郎は室(へや)へ引き籠もり、無気力な日々を送っている。修学や弓箭(きゅうせん)の稽古も放り出したままだった。 信方は太郎の処へ行き、怒ったように声をかける。 「若、板垣にござりまする! 火急の件にて、失礼仕りまする!」 言い終わる前に、襖戸を開け放つ。 文机の前に座っていた太郎が振り向き、ぼんやりとした視線を向けた。 「……ああ、板垣か」 「一大事にござりまする! 勝沼殿から一報が届き、御屋形様の留守を狙い、北条勢が大軍で都留へ迫っているとのこと。おそらく、敵の狙いは都留だけではなく、この新府にござりまする!」 「……ああ」 太郎の反応は鈍い。 「若、しっかりなされませ! 万沢におられる御屋形様がお戻りにならねば、われらだけで勝沼殿の救援に向かわねばなりませぬ。すぐに兵を集める算段を」 「……すまぬ。考えても考えても、答えが出ぬゆえ、頭がぼうっとして……」 「当たり前にござりまする! 考えても答えの出ぬことを考え続ければ、やがて頭が働かなくなるだけにござりまする。そんな時は、考えようとする己を放擲(ほうてき)し、軆(からだ)を動かさねばなりませぬ。そうしないと、答えの出ぬ悩みに気力まで根こそぎ奪われてしまいまする。しっかりなされ!」 信方の言葉に、太郎は眼を見開く。まさに、それが今の己の状態である。 「……そなたの……申す通りだ」 簡潔に言い当てられ、太郎は眼から鱗が落ちる思いだった。 「若の気が済むまで待つつもりでありましたが、そうもいかなくなりました。何がなんでも動いていただかねばなりませぬ。武田家存亡の危機ゆえ」 「ああ、わかった」 「では、まずは新府に残っている者たちをまとめ、近隣の村々に募兵を呼びかけましょう」 信方に促され、太郎はやっと動き出した。 二人はまず甘利(あまり)虎泰(とらやす)の処へ赴く。次郎の傅役(もりやく)として新府に残った数少ない家臣の一人だった。