「おくつろぎのところ、失礼いたしまする。御屋形様、晴信様がお見えになりました」 荻原虎重が襖(ふすま)の向こう側へ声をかける。 「入れ」 信虎のぶっきらぼうな返事が聞こえた。 荻原虎重が音もなく襖を引き、晴信を室内へ導く。 「晴信、お呼びに従い、罷(まか)り越しましてござりまする」 「遠慮いたすな。もっと近くへ来ぬか」 信虎は脇息(きょうそく)に軆(からだ)を預け、すでに大盃を傾けている。 「はい。有り難き仕合わせ」 晴信は眼を伏せたまま躙(にじ)り寄った。 「本日、呼び立てたのは他でもない、酒の肴(さかな)に孫子(そんし)の暗誦(あんしょう)でも聞きたいと思うてな」 皮肉な笑みを浮かべ、信虎が言う。 晴信は思わず眼を見開き、顔を上げる。 「真に受けるな。戯れただけじゃ」 一人で高笑いしてから、信虎は盃の酒を飲み干す。 すかさず小姓の一人が次の一献を酌する。 「孫子の一節など聞かされても、酔いが冷めるだけだ。ところで、修学は進んでおるのか?」 「……あ、はい。三略(さんりゃく)を終えまして、今は六韜(りくとう)を学んでおりまする」 「さようか。よほど坊主との勉強が好きと見えるな。あるいは、暇なのか?」 信虎はからかうように訊く。 晴信は黙って俯(うつむ)いたままだった。 「まあ、よい。弓は?」 「毎日欠かさずに稽古しておりまする」 「少しは上手くなったのか?」 「やっと的内に入る矢の方が多くなってまいりました」 「少しは、ましになったか。まあ、口先兵法ばかりの青瓢箪(あおびょうたん)では困るからな」 つまらなそうに呟き、再び盃を呷(あお)った。 「本題に入ろう。話というのは、信方のことだ。佐久での戦いぶりは聞いておるな」 「……はい」 「自ら志願しただけあり、なかなかの働きぶりだ。村上義清が泡を喰うほど短期間で佐久の城と砦を落とし、今は平賀城にいる。小県の海野も警戒しており、少々騒がしくなっておるゆえ、信方はしばらく新府へ戻れぬであろう。村上、海野のいずれかと話がつくまで佐久の先方衆として前線を守ってもらわねばならぬからな。だから、そなたは当分、あの者に頼ることはできぬ。それを心得ておけ」 「承知……いたしました」 「それとな、来年、次郎の元服を執り行い、初陣へ出すことにした。佐久の戦がその前捌きであることは、そなたもわかっているであろう。まだ、どのような仕立てになるかわからぬが、まあ、次郎の初陣は信濃、佐久の先であることは間違いない。だから、それまで信方に踏ん張ってもらわねばならぬというわけだ。その時は余も出陣するゆえ、そなたには留守居役を申し付ける。われらが戻るまで新府の守りを預けるゆえ、しっかりと役目を果たせ。まあ、宿敵の今川(いまがわ)は味方となり、北条(ほうじょう)には甲斐まで攻め寄せるほどの心胆はないゆえ、さほどの心配はあるまい。われらも武功を上げ、さっさと戻るしな」 「は、はい……」 晴信に思うところはあったが、それを口にはできなかった。