連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)17 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 ちょうどその頃、信方は巨摩(こま)郡の長禅寺で駿府からの来訪者を待っていた。
 ――今川の軍師がこれほど身軽に素早く動いてくるとは思うてもみなかった。
 それが正直な感想だった。
 やがて、岐秀元伯に案内され、太原雪斎が現れる。あえて、墨染めの法衣を纏(まと)った姿だった。
 待ちわびていた信方を見て、太原雪斎は両手を合わせて礼をする。
「これは板垣殿、お久しゅうござりまする。いつぞやは万沢(まんざわ)で失礼をば、いたしました」
 雪斎と信方が会うのは、これで二度目となる。
 一度目は、信方が花倉(はなくら)の乱における今川家の謀反人(むほんにん)を万沢まで討伐に出かけた時である。駿河の領内に入り込んで謀反人を討ち取った信方を、予想していたかの如く待ち受けていたのが太原雪斎だった。
「こちらこそ。わざわざ甲斐までご足労いただき、申し訳ござりませぬ。こたびは火急の件でお越しと聞きましたが」
 信方も挨拶を返す。
「万沢で謀反人の首級(しるし)ひとつ、お借りしてから、早く何かお返しせねばと思うておりましたが、やっとこれでお返しできそうにござりまする」
 雪斎は笑みを浮かべながら言った。
 ――謀反人の首級ひとつ……。いまの今まで忘れておったが、確かにさようなこともあった。
 信方は改めて相手の顔を見直す。
 確かに、太原雪斎は万沢で信方が討ち取った謀反人の首級を借り受けたいと申し出た。そして、「この借りは、いつか必ず倍にして返さねばなりませぬ」と言った。
 その真意がどこにあったのか、信方には計り知れなかったが、本日がその日となるらしい。
「貸しの話など、すっかり忘れておりました。して、そのご用件とは?」
 あえて愛想を振りまかず、信方が訊ねる。
「板垣殿もお忙しい方ゆえ、直入に申し上げた方が良さそうにござりまするな。では、元伯。少し外してくれぬか」
 雪斎が岐秀元伯に言い渡す。
「はい。では、ごゆっくり」
 岐秀元伯が退出し、室内は二人きりとなった。
「話を急ぎますと、少々不躾(ぶしつけ)な塩梅(あんばい)となるかもしれませぬが、どうかご容赦くだされ」
 そう前置きをした上で、雪斎が切り出す。
「数日前に武田信虎様が駿府へ罷(まか)り越され、その夜にすぐ、わが主(あるじ)と差し向かいで話をしたいと仰せになられました。何やら内密な話のようで、信虎様と義元様の他には、この身と御供の土屋昌遠殿の四人だけで談合となりました。そこで信虎様が先の海野平(うんのだいら)の合戦の話をなされ、『信濃(しなの)に新たな領地を得たので、小諸(こもろ)に新しい要害を築きたい』と申されました。当方としては何のことやら見当もつきませんでしたが、信虎様は『その新城に晴信様を入れたい。ついては城を築くための当面の資財をお借りできぬか』と仰せになられました。われわれとしては寝耳に水の如きお話でありましたので、とりあえずは黙って拝聴するしかありませなんだ。ちなみに、板垣殿はその話をお聞きになっておられまするか?」
 難しい問いかけだった。
 聞いていると答えれば、もちろん嘘をつくことになり、信虎の意嚮(いこう)を認めていることになる。
 しかし、聞いていないと答えれば、それはそれで相手に無様を晒(さら)すことになってしまう。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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