よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 この夜襲は、和睦に応じない山内上杉憲政に業を煮やした北条氏康が必死で仕掛けた戦いだった。
 北条家の惣領(そうりょう)自らが率いる八千余の軍勢は灯火を用いず、夜目にも明らかな白布の相印(あいじるし)を身に纏(まと)い、山内上杉憲政の本陣を背後から襲ったのである。
 戦勝気分で軍装を解いていた関東管領の陣は、この乾坤一擲の攻撃で大混乱に陥る。
 氏康は八千の軍兵を四軍に分け、三軍による波状攻撃をかけ、相手の軍勢を混乱の坩堝(るつぼ)に叩き込んだ後に、残った一軍が遊軍となり、逃げまどう敵将を探して討ち取った。
 憲政の本隊には、この攻撃が得体の知れない大軍のように思われ、一気に総崩れとなる。
 混乱に乗じた北条軍は、次に扇谷上杉の軍勢に斬り込む。
 慌てふためいて逃げ惑う六万五千を、八千余の北条軍が薙(な)ぎ倒し、扇谷上杉朝定(ともさだ)をはじめとして小野(おの)播州(ばんしゅう)、倉賀野三河守(みかわのかみ)、本間(ほんま)江州(ごうしゅう)、難波田(なんばだ)弾正(だんじょう)などを含め、三千余りの将兵を討ち取ってしまう。
 氏康の本隊に呼応し、河越城から打って出た北条綱成は、わずか三千余騎で二万五千の古河公方軍に突撃する。
 闘いに飢えた猛虎、地黄八幡(じきはちまん)がそれまでの鬱憤を一気に爆発させ、檻(おり)から放たれたような暴れぶりで足利晴氏の軍勢を蹴散らした。
 襲われた古河公方はなす術(すべ)もなく、下総(しもうさ)に向けて敗走する。関東管領の山内上杉憲政も命からがら平井(ひらい)城に向かって遁走(とんそう)した。
 本来、戦は数の優位が戦いの基準となるが、時として、これを凌駕(りょうが)する奇蹟(きせき)が起こってしまう。
 戦に臨む者の気迫により、予期せぬ出来事を呼び覚ますことができる。それもまた、戦の本質であった。
 北条勢はわずか十分の一の軍勢で決死の戦いを挑み、それはまさに逆転の勝利を呼びこむ奇蹟となる。
 一方、八万五千の関東管領連合軍にとっては、惨憺(さんたん)たる結果だった。半年にも及ぶ勝利目前の戦いが、たった一夜で無に帰したのである。
 もしも、北条氏康の嘆願を真直ぐに受け入れ、和議を行っていれば、このような結果は免れていたはずだった。
 大将の朝定を討ちとられた扇谷上杉家はこの合戦で壊滅し、古河公方と関東管領の権威も失墜する。河越城の夜戦は関八州全土を震撼(しんかん)させただけでなく、東海、甲斐、信濃(しなの)、越後(えちご)まで北条氏康と綱成の武名を轟(とどろ)かせることになった。そして、北条家三代目の雄飛を決定付けた。
 もちろん、これらの事柄は、後になってからしか知ることができない事実である。
 陣の端に追いやられていた海野一統は、ほとんど被害もなく撤退したが、真田幸綱にとっては途轍(とてつ)もなく苦い敗北だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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