よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 信方は使番(つかいばん)の香坂(こうさか)昌信(まさのぶ)を呼ぶ。
「御屋形様のもとへ走り、緒戦の結果をお伝えし、すぐにこちらへ入っていただけ」
「承知いたしました」
 香坂昌信は急いで大屋追分(おおやおいわけ)へ向かった。
 報告を受けた晴信(はるのぶ)はただちに進軍の命令を発し、本隊を国分寺へ進める。その馬上で香坂昌信に訊ねる。
「わが方の損害は、どのくらいだ?」
「それが……ほとんど、ありませぬ」
「ほう、意外だな。討ち取った敵の数は?」
「多くても二、三かと。敵方の士気はまことに低く、室住殿の隊とまともに干戈(かんか)を交えず、蜘蛛(くも)の子を散らすが如(ごと)く逃げましてござりまする」
「ますます奇妙だな。先陣として絶好の場所を、戦いもせず明け渡すか……」
 晴信は独言(ひとりごと)のように呟(つぶや)く。
「……何か罠があるとしか思えぬな」
 顔をしかめた主君を、轡(くつわ)を並べた香坂昌信がそれとなく窺(うかが)う。
「ともあれ、戦は始まったばかりだ。必要以上に敵を大きく見ても仕方があるまい。昌信、先に行き、本隊が向かっていることを伝えてくれ」
「御意!」
 香坂昌信は愛駒の腹を蹴り、速歩(はやあし)で国分寺へ戻った。 
 晴信が到着すると、信方が迎えに出る。
「板垣(いたがき)、味方に損害もなく、上首尾の出来であったな」
「はい。……されど、正直に申せば、あまりに手応えがなく、少々戸惑っておりまする」
「同感であるな。確かに、ここまで何もなさすぎる」
「とはいえ、われらの思い通りに事が進んでおりますゆえ、憂慮する必要はないと存じまする。杞憂は無用な迷いを生じさせますゆえ」
「そうだな」
「この国分寺を制することは、今後の戦いにおいて最も重要な用件にござりました。僧寺全体を本陣としてお使いくださりませ。われら先陣は尼寺に陣取り、北門を使うて敵の追跡を行いまする」
「わかった。では、一息入れた後で今後のことを話し合おう」
「承知いたしました。では、一刻半(三時間)後に皆を集めておきまする。評定の場所は僧寺の講堂でよろしゅうござりまするか」
「構わぬ」
 晴信が頷く。  
「では、後ほど」
 信方は小さく頭を下げ、晴信と別れた。
 ――やはり、若も違和感を覚えておられるようだ。
 そう思いながら、国分僧寺全体を眺め廻す。
 ――これだけの構えをあっさり捨てるとはな……。われらならば、あり得ぬ。敵の戦い方を弱腰と見るか、面妖と見るかで、この後の対処は大きく変わっていく。甘利の見解だけでも確かめておくか。
 ふっと息を吐き、信方は尼寺の金堂へ向かった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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