すべてを聞いた藤乃は、微かに表情を曇らせた。 「慣れ親しんだ武蔵から急に見知らぬ土地へ参られ、朝霧様は甲斐の水に慣れるまで時がかかるでありましょう。同じ甲斐の巨摩(こま)郡でお生まれになった大井の御方様でさえ、親元から離れた寂しさに沈まれ、新府の暮らしに馴染むまで大変でありました。おそらく、今、朝霧様は不安に苛(さいな)まれ、心をお開きになる相手は侍女の立花(たちばな)殿だけでありましょう。太郎様と同じく、朝霧様も若君といかように接すればよいか、わからぬのだと思いまする。あるいは、沈んだ気持ちのまま、動けなくなっているのやもしれませぬ。女子は心持ちひとつで軆(からだ)の具合まで変わりますゆえ」 輿入れの前から大井の方に付き添ってきた侍女頭ならではの見解だった。 「……そなたの申すとおりであろうな」 「わたくしが御方様にお願いし、まずは立花殿と三人でお話ししてみるのはいかがにござりましょう。御方様がご一緒ならば、立花殿も正直に朝霧様の御様子を話してくれるのではありませぬか」 「なるほど、まずは侍女に状況を訊ねるのが筋か。於藤、頼まれてくれるか?」 「はい。お任せくださりませ。もしも、太郎様が朝霧様と直にお話しなさるのは難しいとお思いならば、まずは文を付けて贈り物など、なさればよろしいのでは」 「贈り物……。何を贈ればよいのであろうか?」 「あくまでも文にて気遣いをお伝えするのが目的ゆえ、あまり大仰なものではない方がよいかもしれませぬ。打掛(うちかけ)に焚き込める練香(ねりこう)、間着(あいぎ)を押さえる細帯(ほそおび)。……ああ、丈長(たけなが)に使う飾り杉原と絵巻の衵(あこめ)を一束一本(いっそくいっぽん)にするのなども、よいかもしれませぬ」 「さように言われても、何が何やら、さっぱり……」 信方は困惑したように頭を掻く。 「お前様、わたくしが欲しいと思うものも、この中に入っておりまする」 「……すまぬ。女人の嗜(たしな)みには疎(うと)い。許してくれ。噛んで含めてもらわねば、まったくわからぬ」 「わかりました」 藤乃は贈り物について詳しく説明を始める。 打掛に焚き込める練香とは、「空薫物(そらだきもの)」とも呼ばれ、沈香(じんこう)や麝香(じゃこう)など数種の香材を薬研(やげん)で細粉とし、蜜、蔗糖、貝殻、梅干などを練り合わせて調合したものである。上流の公家婦人はこれを香炉でくゆらせ、装束に独自の香りを焚き込めることを嗜みとしてきた。それが鎌倉後期ぐらいになってから、上流の武家にも流行りだした。 一口に練香といっても、調合の加減だけでなく、あえて材料を土に埋めたり、季節によって日数や方角まで変えるなど、多くの秘法がある。女人は襦袢(じゅばん)などにまで練香を焚き込め、灯りを消した閨でも香りによって己の存在を際立たせることができた。 それぞれの女人がそれぞれの香りを持ち、微かな汗と混じり合い、歩きながら装束の袖を振っただけで誰がその場所を通ったのかわかるほどだった。 それほど、女人にとっては香の存在が重要である。 こうした薫物は元々、唐衣(からぎぬ)や袿(うちき)を重ねて着る公家の女房装束に用いられてきたが、やはり鎌倉幕府の治世となってから、上流武家の女人にもその習慣が定着し、練香が重宝とされた。