しかし、元寇(げんこう)以後、世が乱れ始め、荘園が各地の武家や豪族に押領され、公家が困窮すると十二単(じゅうにひとえ)を頂点とする女房装束は特別の儀式だけのものとなる。宮中でも御主上(みかど)に伺候する時以外は五重襲(いつえがさね)の唐衣を略すようになった。 さらに表衣(うえのきぬ)や上裳(うわも)さえ省くようになり、南北朝の頃には下級の女官が小袿、袴に衣、単を重ねるだけの「はだか衣」という袿姿にまで至る。その風潮に合わせ、公家様を採り入れた上流武家の婦人にもより簡略な形が求められた。小袖の上に間着を重ね、幅の狭い垂らし帯を締め、その上に小袿や打掛を羽織るようになったのである。 それでも身嗜みとして空薫物は欠かせない。もうひとつ、間着の前に垂らす帯の色や柄を、小袿や打掛に合わせて工夫するようになった。それが細帯である。 簡素になった装いの中でも、柄や色合いにこだわることで、女人たちはさりげなく己の趣味や個性を主張するようになった。 「質素倹約を旨とする武門の奥方においても、やはり、細帯へのこだわりは捨てられませぬ。それだけに贈り物としては難しゅうござりまするが、的を射た時の効果は絶大にござりまする。ここまでは、よろしゅうござりまするか?」 藤乃が念を押す。 「ん?……あ、ああ……わかったと思うが」 「ならば、お前様。わたくしの欲しいものも、少しはおわかりになりましたか?」 「ん!?……ん、んんっ」 信方は空咳をしながら、そらを向く。 「なんとなく……だがな」 「わたくしも早く女房装束など纏い、晴れの場に出とうござりまする。太郎様が武田家の惣領(そうりょう)として御上洛なさり、御主上に拝謁なさる時は京の都でそのような装いが必要となりましょう。お前様は衣冠束帯、わたくしは唐衣。思うだけで胸躍り、夢のような心地になりまする」 「うぅむ……。こ、この身も精進し、太郎様が御出世なされるよう、努力をせねばな」 「お願いいたしまする。では、最後の贈り物についてお話しいたしましょう。丈長(たけなが)とは、これのことにござりまする」 藤乃は背を向け、長い垂らし髪を束ねる和紙の飾りを示す。 装束の変化に合わせ、女人の髪型も変わり、武門では長い髪を元結いにし、両頬に鬢枇(びんそぎ)を垂らす形を倣(なら)いとした。 鬢枇は鬢削ぎとも呼ばれ、女子が成人になる証(あかし)として行う御裳着(おもぎ)の儀において、頬に垂らした髪の先を切ることである。当世では齢(よわい)十六の六月十六日に行われ、父兄または婚儀を約した相手だけが鬢を削ぐ仕来(しきた)りとなった。 残った垂れ髪は、和紙を平たく折った丈長で根元を結う。その和紙のことを「飾り杉原」と呼んでいる。色合いや柄の綺麗な和紙は古(いにしえ)から貴重な品であり、公家の間で上等な贈答品として喜ばれた。 同じように、御裳着を済ませた女人は装束に合わせた扇を常備しなければならない。衵扇は檜(ひのき)や杉の薄板を連ね、表裏に極彩色の絵が描かれ、両端に長い飾り紐を付けたものが上等とされ、これも贈り物とする時は艶(あで)やかな和紙で包装される。 このように和紙を重宝とし、贈答する風習は武門においても受け継がれ、当世では檀紙、美濃紙、越前紙、甲斐田紙、修善寺紙を総称して「杉原」と呼ぶ。 一束一本とは、この杉原を一束、つまり十帖ひと揃えとし、扇一本を組み合わせて水引でまとめ、贈答品とすることである。贈り物を和紙で包む方法も「折形(おりがた)」として定められており、これは礼法のひとつとされた。