「かたじけなし。しっかりと読み込んでから、実践に移してみよう」 「期待しておりまする」 「来年の初射礼(はつじゅらい)には、何としても立ち会いたい」 今年の一月半ばに行われた新年の射礼に、太郎は加わることができなかった。 父の信虎(のぶとら)が「腕前が足りておらぬ」と参加を禁じたからである。弟の次郎は立ち会いを許され、長男としてはこの上ない不名誉となった。 それから、弟とは以前のようにじゃれあうどころか、親しく口もきいていない。次郎はそれを寂しがっていたが、周囲が二人を引き離していた。 「大丈夫。若ならば、やれまする。骨(こつ)さえ掴めば、誰よりも上手くなってしまうのではありませぬか」 信方は太郎を励ますように明るく振る舞った。 この後、朝霧姫に太郎からの文と贈り物が届けられる。しばらくして、返事がきた。 感謝の気持ちが連ねられ、最後に「新しい丈長で髪を結い、太郎様と御一緒に甲斐の桜を見てみとうござりまする」と締め括られていた。 太郎もそれを喜び、さっそく朝霧姫を楽しませるための花見遊山を考え始めた。 山間の盆地である新府において、桜のほころびは決して早くない。暦の上では春が終わるとされる三月の終わり、弥生尽(やよいじん)あたりまで待たねばならなかった。それでも、山の麓から山頂にかけて順に開花していく見事な山桜がある。 待ち遠しい気持ちを胸の奥に封じ、太郎はやらなければならないことに精進することにした。 物事が緩やかな進展の兆しを見せ始めた、その矢先の出来事だった。 隣国で流行していた疫病が、少し遅れて甲斐の国で蔓延する。昨年からの不作もあり、人々は次々と倒れ、新府でも多くの死者が出た。 それが飢饉の餓死なのか、病死なのかもわからない。甲斐の国内は見えない敵の恐怖にさらされ、大きな混乱に陥った。 そんな中、朝霧姫も体調を崩し、病いの床へ臥してしまったのである。 太郎は見舞いを申し出たが、うつり病の怖れもあるとして実現できなかった。仕方なく薬だけを差し入れた。 朝霧姫は寝所に閉じ籠りきりとなり、ほとんど外へ出ることもなくなる。具合はいっこうに改善せず、侍女の立花が日に何度か食事を届けるだけとなった。 疫病は春の終わりから蒸し暑さの続く夏の間中、猛威を振るい続ける。連日、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館には民からの陳情が届けられるが、父の信虎はそれを一顧だにしなかった。 逆に、兵糧不足を解消しようと、新たな徴発を行おうとする。これに対して新府の周辺は不穏な空気に包まれ、一揆が暴発する寸前にまで不満が高まった。 信虎は激しく抵抗した笛吹の村を見せしめのために焼き、村長をはじめとして反抗した者たちを残虐な方法で処罰する。その中には女人や童までが含まれ、不満を抱いていた他の村々は震え上がり、武器として手にした鋤や鍬を置いた。 恐ろしい処刑についての風聞は甲斐の国中に広まり、陳情の類は鳴りをひそめる。 その頃、新府では新たに奇妙な風聞が囁かれていた。 朝霧姫、御懐妊。そんな噂だった。 それを耳にして、誰よりも仰天したのが、信方である。 ――根も葉もなき、莫迦(ばか)げた風聞を流しよって!?……太郎様が朝霧姫と話もできぬと悩んでおられるのに、なにが御懐妊だ。何もわかっておらぬ莫迦者どもめが! 驚きの次に沸いてきたのは、激しい怒りだった。