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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志3 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「かたじけなし。しっかりと読み込んでから、実践に移してみよう」
「期待しておりまする」
「来年の初射礼(はつじゅらい)には、何としても立ち会いたい」
 今年の一月半ばに行われた新年の射礼に、太郎は加わることができなかった。
 父の信虎(のぶとら)が「腕前が足りておらぬ」と参加を禁じたからである。弟の次郎は立ち会いを許され、長男としてはこの上ない不名誉となった。
 それから、弟とは以前のようにじゃれあうどころか、親しく口もきいていない。次郎はそれを寂しがっていたが、周囲が二人を引き離していた。
「大丈夫。若ならば、やれまする。骨(こつ)さえ掴めば、誰よりも上手くなってしまうのではありませぬか」
 信方は太郎を励ますように明るく振る舞った。
 この後、朝霧姫に太郎からの文と贈り物が届けられる。しばらくして、返事がきた。
 感謝の気持ちが連ねられ、最後に「新しい丈長で髪を結い、太郎様と御一緒に甲斐の桜を見てみとうござりまする」と締め括られていた。
 太郎もそれを喜び、さっそく朝霧姫を楽しませるための花見遊山を考え始めた。
 山間の盆地である新府において、桜のほころびは決して早くない。暦の上では春が終わるとされる三月の終わり、弥生尽(やよいじん)あたりまで待たねばならなかった。それでも、山の麓から山頂にかけて順に開花していく見事な山桜がある。
 待ち遠しい気持ちを胸の奥に封じ、太郎はやらなければならないことに精進することにした。
 物事が緩やかな進展の兆しを見せ始めた、その矢先の出来事だった。
 隣国で流行していた疫病が、少し遅れて甲斐の国で蔓延する。昨年からの不作もあり、人々は次々と倒れ、新府でも多くの死者が出た。
 それが飢饉の餓死なのか、病死なのかもわからない。甲斐の国内は見えない敵の恐怖にさらされ、大きな混乱に陥った。
 そんな中、朝霧姫も体調を崩し、病いの床へ臥してしまったのである。
 太郎は見舞いを申し出たが、うつり病の怖れもあるとして実現できなかった。仕方なく薬だけを差し入れた。
 朝霧姫は寝所に閉じ籠りきりとなり、ほとんど外へ出ることもなくなる。具合はいっこうに改善せず、侍女の立花が日に何度か食事を届けるだけとなった。
 疫病は春の終わりから蒸し暑さの続く夏の間中、猛威を振るい続ける。連日、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館には民からの陳情が届けられるが、父の信虎はそれを一顧だにしなかった。
 逆に、兵糧不足を解消しようと、新たな徴発を行おうとする。これに対して新府の周辺は不穏な空気に包まれ、一揆が暴発する寸前にまで不満が高まった。
 信虎は激しく抵抗した笛吹の村を見せしめのために焼き、村長をはじめとして反抗した者たちを残虐な方法で処罰する。その中には女人や童までが含まれ、不満を抱いていた他の村々は震え上がり、武器として手にした鋤や鍬を置いた。
 恐ろしい処刑についての風聞は甲斐の国中に広まり、陳情の類は鳴りをひそめる。
 その頃、新府では新たに奇妙な風聞が囁かれていた。
 朝霧姫、御懐妊。そんな噂だった。
 それを耳にして、誰よりも仰天したのが、信方である。
 ――根も葉もなき、莫迦(ばか)げた風聞を流しよって!?……太郎様が朝霧姫と話もできぬと悩んでおられるのに、なにが御懐妊だ。何もわかっておらぬ莫迦者どもめが!
 驚きの次に沸いてきたのは、激しい怒りだった。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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