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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志3 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 当初は遺体の引き渡しをめぐり、扇谷上杉家と一悶着あったが、輿入れ後のことでもあり、武田家の身内として甲斐に埋葬することに決まった。
 当日、侍女の立花は朝霧姫の小さな位牌だけをかき抱き、躑躅ヶ崎館を出立する。太郎をはじめ、大井の方、信方と藤乃だけが見送ったが、立花は小さく会釈しただけで一度も振り返らずに追手門(おうてもん)を後にした。
 だが、太郎は立花の瞳に怨恨の焔(ほのお)が立ち上っているのを見逃していなかった。
 ――武田家が朝霧殿を見殺しにした。立花殿は間違いなく、さように思うているのであろう……。
 太郎の心中にもそのような悔恨があったからだ。
 朝霧姫の位牌と侍女の立花が武蔵に戻ったことで、扇谷上杉家とはひとまず手切のような状態になった。
「輿入れした娘がたった一年で亡くなったことに、扇谷上杉朝興(ともおき)殿が激怒しており、もはや関係の修復はできそうにありませぬ」
 家宰の荻原(おぎわら)昌勝(まさかつ)から、そのように報告を受けても、信虎はどこ吹く風といった表情だった。
「扇谷上杉は思うたよりも北条に対して弱腰であり、あてにできぬ。朝興に泣きつかれ、武蔵へ無用な援軍を送らずに済み、かえってよかったではないか」
 信虎はそう嘯(うそぶ)き、冷笑を浮かべる。
「それよりも、問題は兵糧の調達じゃ」
「……兵糧の調達、とは?」
 荻原昌勝は戸惑いを隠せない。
「甲斐がこれほど弱っているのだ。隣国も同じであろう。相手が弱っている時こそ、攻め時ではないか。要は、我慢比べだ。兵糧さえあれば、戦はできるのだから」
「まさか、戦を……」
「そなたがまさかと思うのだから、敵の驚きはその倍であろう。戦というのは、詭道(きどう)に限る。己が苦しいならば、その鬱憤をすべて敵にぶつければよいのだ。敵の領地で好きなだけ略奪ができるとなれば、兵たちの眼の色もさぞかし変わるであろうよ」
 信虎の野放図な発想には、誰もついていけなかった。
 飢饉と疫病の真っ最中に戦をしようなどというのは、常人の発想ではない。まさに、餒虎(だいこ)ならでは思いつきだった。
 そして、暮れも押し詰まった十二月二十四日、信虎は定書(さだめがき)を発布し、領国内に押立公事(おしたてくじ)、未定の役などを求める。押立公事とは上乗せされる臨時の雑税であり、未定の役とは臨時の緒役を課すことだった。つまり、この二つは戦をするための兵糧の調達と急な兵役を意味していた。
 この定書に甲斐の国内はさらに動揺し、今にも一揆(いっき)が蜂起しそうな気配となる。
 それを聞いた信方は、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
 ――年明け早々に戦をするというのか!?……太郎様の奥方が亡くなったばかりだというのに、御屋形様には喪に服すというお気持ちさえないようだ。
 当の太郎は、信じ難いほど鬱ぎこんでいる。弓箭の稽古や修学をいっさい止め、室に閉じ籠ったきりだった。
 信方が何度か声をかけても、返答さえなかった。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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