連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志3 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 そのまま年が明けてしまったが、さすがに元旦の拝礼(はいらい)には太郎も姿を現した。
 しかし、その姿には覇気どころか、精気さえ感じられない。
 それを見た信虎は「気鬱がうつる」と宴席から太郎を下がらせる。当然のことながら、初射礼への参加も認められなかった。
 その射礼がある日、信方は太郎を無理やり室から引っ張り出し、要害山(ようがいやま)へ登った。館に居れば、さらに気が滅入るだろうと考えたからである。
 嫌々ながら山へ登った太郎は、ぼそりと呟く。
「……板垣、しばらく独りにしてくれぬか」
「わかりました。お好きなだけ、どうぞ。それがしは積翠寺(せきすいじ)におりまする」
「……気が済んだら、積翠寺まで下りる」
「御意」
 信方は足早にその場を去った。
 独りになった太郎はそこに座り込み、、所在なく膝を抱える。
 気がつけば、北颪(きたおろし)が吹く季節になっていた。
 哀しみはいつも、その寒風の中に漂っている。
 ――この身が朝霧殿を殺してしまったのだろうか。それとも、武田家が見殺しにしてしまったのか。
 太郎には侍女の瞳に宿った怨恨の焔が忘れられなかった。
 その焔に、己の気力を根こそぎ焼き尽くされてしまったのである。
 身内を失ったのは、初めてではない。腹違いの兄と弟が一人ずつ亡くなっている。しかし、共に七歳で死に、別の場所で育っていたため、身内という意識が希薄だった。
 そういった意味では、朝霧姫とも親しく側にいたという記憶がほとんどなく、身内と呼べるかどうかさえも不確かだ。想い出といえば、初夜の時に合わせた背中の強ばりぐらいである。
 それでも、朝霧姫は己の最初の妻だった。
 後悔は山ほどある。
 ――初夜の翌日から、もっと一緒にいて、もっと話をすればよかった。
 そうすれば、朝霧姫が死ぬようなことはなかったようにも思える。
 ――結局、この身は己のことしか考えておらず、目先のことに精一杯で優しい気遣いなどできなかった。ただ手前勝手な振舞をしただけだ。
 太郎にも余裕がなかった。
 しかし、朝霧姫はもっと切羽詰まっていたように思えた。
 ――朝霧殿の子も、一緒に死んでしまったのだろうか?
 そう考えると、急に胸の奥から哀しみが滲み出てきた。それがあっという間に溢れ出し、津波のように己を押し流すのに、さほど時はかからなかった
 太郎は膝の上に顔をつけ、哀しみに溺れまいと、必死で泪(なみだ)を堪(こら)える。しかし、止めきれなかった滴が手の甲を濡らした。
 一度泪を流してしまえば、もう痩我慢など何の意味もない。ただ止めどなく泪が溢れ出すだけだった。
 しまいには、赤子の如く、声を上げて哭き始めた。
 いつかは自力で立ち上がるしかない。そのことはわかっていた。
 わかってはいるが、今はただ蹲(うずくま)り、哭くしかなかった。
 そんな太郎の姿を、積翠寺に下りたはずの信方が、少し離れた処から見守っていた。
 ――いくらでも哭き続けるがよろしい。泪が涸(か)れ果てるまで。この身は若が御自分で立ち上がるまで、いつまででも待っておりまする。
 信方は眼を細め、潤みを止めようとする。
 太郎は哭き続けていた。
 北颪がそんな二人の心を真冬の彼方へと運んでいった。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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