よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 さらに、これを知った十国峠筋の国人、大塚城の小林監物と高山城の高山行重も恭順の意を示し、年明けには正式に麾下へ入ると伝えてきた。
 そして、和田城の和田業繁が信玄に内通していることが確認され、義信は密(ひそ)かにこの者とも連絡を取るようになった。
 ――十一月の半ばに出張ってから、目標の半分以上はやり遂げた。上々の首尾ではないか。
 この役目の完遂が、義信の視野に入っていた。
 こうした動きに呼応し、北条氏康(うじやす)は武蔵の鉢形(はちがた)城に兵を集め、上杉政虎(まさとら)に奪われていた松山(まつやま)城を奪還すべく攻撃を開始した。
 この一報を受けた上杉政虎は急遽(きゅうきょ)、坂東(ばんどう)への出陣を決め、武蔵国の北部にある生野山(なまのやま)で応戦に及ぶ。
 しかし、川中島の戦いで甚大な損害を受けていたことが響き、この戦いで敗勢となったが、かろうじて松山城に寄せた北条勢だけは撤退させた。
 その後、越後勢は近衛(このえ)前久(さきひさ)が籠もる古河(こが)御所の辺りからも撤退せざるを得なくなる。
 それを見た北条氏康は、間隙を縫って古河周辺の国人衆、成田(なりた)長泰(ながやす)や佐野(さの)昌綱(まさつな)を調略した。さらに武蔵国の上杉憲盛(のりもり)を北条家に寝返らせる。
 上杉政虎は寝返った佐野昌綱を再び服従させるため、下野国(しもつけのくに)の唐沢山(からさわやま)城に攻め寄せたが、坂東一の山城といわれる難攻不落の城に手を焼いた。
 仕方なく戦を切り上げ、厩橋城に戻った政虎は、かねてから近衛前久を通じて京の公方(くぼう)へ送っていた嘆願の返答を得た。足利(あしかが)義輝(よしてる)から偏諱(へんき)の一字を賜り、諱(いみな)を「輝虎(てるとら)」と改めたのである。
 上杉輝虎となった関東管領職は、北条家と武田家の動向を睨(にら)んだまま、越後へ帰国することができずに、厩橋城で年を越すしかなくなった。
 武田、北条の両家が描いた策通りにことが進む中、永禄四年(一五六一)が終わろうとしていた。
 その頃、箕輪衆を揺るがす一大事が起きていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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