よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)18

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 安中一藤太がさらに間合を取ろうとした、その刹那である。
 甘利虎泰が掌中で朱塗りの柄を滑らせて槍を下げ、末端の石突きを摑む。
 間髪を容(い)れず、相手の首ごと薙(な)ぎ払うような一撃を繰り出す。
 二間(約三・六㍍)という槍の長さを最大限に使う大技だった。
 思いも寄らない奇襲を、安中一藤太はぎりぎりで躱(かわ)すが、そのため馬上で体勢を崩してしまう。
 ――もらった!
 甘利虎泰は石突きを握ったまま、素早い突きを繰り出す。
 その槍先が相手の鎧を貫き、右の肩骨に突き刺さる。
「ぐわっ」
 安中一藤太が苦悶の声を上げる。切先が抜かれると血が噴き出し、さらに背筋まで激痛が走った。
 甘利虎泰は素早く槍を持ち替え、正確無比な一撃を前屈みになった安中一藤太の喉仏に突き入れる。
「ひゅ」
 奇妙な声を発した後、安中一藤太は鞍上から滑り落ち、地面の上でもんどり打った。
 その様を、甘利虎泰は感情を殺した面持ちで見つめていた。
 それから愛駒の背を降り、安中一藤太が腰に括り付けていた首袋を奪う。
「約束通り、これは返してもらうぞ」
 酷薄な面持ちで呟く。
「村上の先陣大将、安中一藤太を討ち取ったり!」
 虎泰は槍を突き上げ、大音声を発する。
 それに応え、周りで甘利隊の気勢が上がった。
 敵の意表を衝いて強引に一騎打ちを仕掛けた甘利虎泰の完勝だった。
 しかし、勝利の喜びなど微塵(みじん)も湧いてこない。
 虎泰は血染めの首袋を開け、中の首級を確かめる。
「なんと……いうことだ……」
 首袋の紐(ひも)をきつく締め、天を仰ぐ。
 中に入っていたのは、まごうかたなく信方の首級だった。
 ――何が起きたか、状況を正確に摑まねばならぬ。ここでの長居は無用。観音寺に退き、備前と合流してから本陣へ戻らねば。
 そう思いながら、再び愛駒の背に跨がる。
「引き揚げるぞ!」
 部下に命じた次の瞬間、甘利虎泰がまったく予想していない出来事が起こった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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