「……では、どうしても……どうしても甲斐へは逃がしてくれぬと?」 「甲斐へは、入れぬ。されど、捕縛されて駿府で晒(さら)し首にされるよりは、自害する方がましであろう。具足を捨てて農夫に化けたとはいえ、武士(もののふ)としての矜恃(きょうじ)まで捨てたわけではあるまい。潔く自害するというならば、武士同士の情けとして苦しまぬよう介錯(かいしゃく)し、手厚く葬ってもやろう」 今川家への引き渡しは約束になかったが、「武士ならば潔く自害すべき」というのは信方の本音だった。 そして、従わなければ討ち取るだけという覚悟も決めていた。 「……武士同士の……情け……ならば、ここを通せ! うおおおおぉ」 先頭の野良着が刀を摑み、立ち上がろうとする。 「慮外者(りょがいもの)め!」 そう叫びながら、信方は信じ難い疾(はや)さで佩刀(はいとう)を抜き、そのまま逆袈裟(ぎゃくけさ)懸けで斬り上げる。 「がぁ」 首筋を斬られた野良着が夥(おびただ)しい血を撒(ま)き散らしながら倒れた。 信方の一撃を合図に、四方から一斉に矢が放たれる。さらに、手負いになりながらも逃げようと足搔く者たちには、円陣となった足軽が槍衾(やりぶすま)を見舞った。 その場は一瞬にして血煙の修羅場と化し、骸(むくろ)の山となる。 「よし、止(や)めい! 充分だ!」 信方は殺気立った兵たちを落ち着かせるために戦闘を止めた。 荒い息を吐きながら、足軽たちが槍を引き、弓をおろす。 宵闇の中に吹く微風が、生々しい血の匂いを里の方角へ運んでゆく。 辺りの物音に聞き耳を立て、信方は人の気配を探る。しかし、目立った動きはなく、謀叛人の後続が潜んでいるような気配はなかった。 ――さて、この後、どうするかだ。骸をこのままにしておくわけにはいかず、御屋形様の首実検を受けねば、役目が完遂したとはいえぬ。兵たちの褒賞のこともあるゆえ、首級(しるし)を取った後にここに埋めてやるとするか……。 信方がそう思った刹那だった。 骸の山から何かが動く。 血溜まりの中から飛び出したのは、血塗(ちまみ)れの骸だった。 いや、骸の振りをして伏せていた者が起き上がり、走り出したのである。 一瞬、虚を衝かれ、兵たちは硬直したまま、その姿を見ていた。 ――たまさか、矢と槍から逃れ、骸に紛れて逃げる機を窺っていたのか!? 信方も驚きながら、駿河の方に逃げていく血塗れの野良着を眼で追う。 ――一人ぐらい逃しても構わぬか。 そんな思いが頭をよぎる。 ――いや、それでは役目を果たしたことにならぬ! 咄嗟(とっさ)にそう判断した。