「各々、支度を怠るな。大儀であった」 信虎はそれだけを言い残し、大上座を後にした。 重臣たちが難しい顔で大広間を立ち去る中、信方が晴信に駆け寄る。 「若、御初陣、おめでとうござりまする」 「ああ。されど、相手の……」 晴信の言葉を遮(さえぎ)り、信方が素早く耳打ちする。 「それにつきましては、後ほど、ご説明申し上げまする」 「……わかった」 「では、われらも退席いたしましょう」 信方は晴信を促し、屋敷へ戻った。 「板垣、初陣が決まったことは嬉しいのだが、相手の素姓がまったく思い当たらぬのだ」 「当然のことにござりましょう。それがしですら、名を聞いてからしばらくは誰のことか、わからずにおりましたゆえ。されど、今は明確に申し上げることができまする。海ノ口城々主、平賀玄心斎(げんしんさい)成頼。元の名は、大井成頼と申しまする」 「大井!?……まさか、母上の縁者なのか?」 晴信は驚愕の表情で訊く。 「正確には、母君の御父上、大井信達(のぶさと)殿の縁者にござりまする。成頼は大井家の庶流であり、信達殿が今川家の傘下にあって御屋形様と反目なされていた時、先鋒を務めていた者」 信方の話によれば、そこには武田家と大井家をめぐる複雑な事情があった。 大井信達は娘を信虎の正室として差し出し、一度は武田家に臣従した。それが晴信の母、大井の方である。 しかし、信虎が新府に移り、国人衆に対しても屋敷を移すよう命じたことに反発し、大井信達は女婿の今井信元(のぶもと)や栗原(くりはら)家と結び、再び武田家と敵対した。 そして、永正(えいしょう)十七年(一五二〇)の今諏訪合戦で信虎に敗れ、大井信達は隠居することで命を救われた。この戦において先鋒を務めていたのが、庶流の親戚である大井成頼だった。 信達の隠居によって大井一門の者は、ほとんどが武田に帰属することになったが、一部の者はそれに逆らい、富田(とだ)城を出奔してしまったのである。 それを率いたのが大井成頼であり、甲斐を出て佐久の平賀へ逃げた。ここで姓を大井から平賀に変え、小県(ちいさがた)の海野(うんの)一統に属することになった。 「それが若のお生まれになる一年前のことゆえ、平賀成頼を存ぜぬのは当然のことにござりまする。されど、成頼は海野一統を裏切り、勢力を伸ばし始めた埴科の村上義清と手を組み、海ノ口城を奪ったようにござりまする」 「そういうことであったか……」 晴信は少し表情を曇らせる。 「若、成頼は先頃、入道して平賀玄心斎と称し、大井一門にいた痕跡さえ消しているとのこと。すでに当家や大井一門とは関係なく、まったく遠慮はいりませぬ」 「そなたの申す通りだな。今は初陣のことだけを考えよう」 「それがよいかと。平賀はともかく、背後にいる村上義清とやらは相当な曲者らしく、油断はできませぬ。自ら『北信濃の虎』と嘯(うそぶ)き、佐久と埴科の間にある小県(ちいさがた)を狙うておると聞きました」 「わかった。初陣を迎えるにあたっての心構えを、御老師にも相談をしてみる」 晴信は決意を秘めた顔で言う。 「さようになさりませ。それがしは佐久の海ノ口城について調べておきまする」 信方は笑みをつくって頷く。 こうして、晴信の初陣は、信虎の面目を保つため急に決められた。 ――御屋形様はまことに執念深き御方だ。今さらながら大井一門を出奔した平賀玄心斎の討伐とはな。しかも、若の初陣にあえて御方様の縁者を選ぶのだから……。 信方にも複雑な思いがあった。 ――されど、突然、降って湧いた話にせよ、この初陣を千載一遇の好機に変えることもできるはずだ。 今は来月の出陣に集中し、これを勝ち抜かなければならなかった。 晴信と信方は、来たるべき初陣に向けて走り始めた。