連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志8 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「各々、支度を怠るな。大儀であった」
 信虎はそれだけを言い残し、大上座を後にした。
 重臣たちが難しい顔で大広間を立ち去る中、信方が晴信に駆け寄る。
「若、御初陣、おめでとうござりまする」
「ああ。されど、相手の……」
 晴信の言葉を遮(さえぎ)り、信方が素早く耳打ちする。
「それにつきましては、後ほど、ご説明申し上げまする」
「……わかった」
「では、われらも退席いたしましょう」
 信方は晴信を促し、屋敷へ戻った。
「板垣、初陣が決まったことは嬉しいのだが、相手の素姓がまったく思い当たらぬのだ」
「当然のことにござりましょう。それがしですら、名を聞いてからしばらくは誰のことか、わからずにおりましたゆえ。されど、今は明確に申し上げることができまする。海ノ口城々主、平賀玄心斎(げんしんさい)成頼。元の名は、大井成頼と申しまする」
「大井!?……まさか、母上の縁者なのか?」
 晴信は驚愕の表情で訊く。
「正確には、母君の御父上、大井信達(のぶさと)殿の縁者にござりまする。成頼は大井家の庶流であり、信達殿が今川家の傘下にあって御屋形様と反目なされていた時、先鋒を務めていた者」
 信方の話によれば、そこには武田家と大井家をめぐる複雑な事情があった。
 大井信達は娘を信虎の正室として差し出し、一度は武田家に臣従した。それが晴信の母、大井の方である。
 しかし、信虎が新府に移り、国人衆に対しても屋敷を移すよう命じたことに反発し、大井信達は女婿の今井信元(のぶもと)や栗原(くりはら)家と結び、再び武田家と敵対した。
 そして、永正(えいしょう)十七年(一五二〇)の今諏訪合戦で信虎に敗れ、大井信達は隠居することで命を救われた。この戦において先鋒を務めていたのが、庶流の親戚である大井成頼だった。
 信達の隠居によって大井一門の者は、ほとんどが武田に帰属することになったが、一部の者はそれに逆らい、富田(とだ)城を出奔してしまったのである。
 それを率いたのが大井成頼であり、甲斐を出て佐久の平賀へ逃げた。ここで姓を大井から平賀に変え、小県(ちいさがた)の海野(うんの)一統に属することになった。
「それが若のお生まれになる一年前のことゆえ、平賀成頼を存ぜぬのは当然のことにござりまする。されど、成頼は海野一統を裏切り、勢力を伸ばし始めた埴科の村上義清と手を組み、海ノ口城を奪ったようにござりまする」
「そういうことであったか……」
 晴信は少し表情を曇らせる。
「若、成頼は先頃、入道して平賀玄心斎と称し、大井一門にいた痕跡さえ消しているとのこと。すでに当家や大井一門とは関係なく、まったく遠慮はいりませぬ」
「そなたの申す通りだな。今は初陣のことだけを考えよう」
「それがよいかと。平賀はともかく、背後にいる村上義清とやらは相当な曲者らしく、油断はできませぬ。自ら『北信濃の虎』と嘯(うそぶ)き、佐久と埴科の間にある小県(ちいさがた)を狙うておると聞きました」
「わかった。初陣を迎えるにあたっての心構えを、御老師にも相談をしてみる」
 晴信は決意を秘めた顔で言う。
「さようになさりませ。それがしは佐久の海ノ口城について調べておきまする」
 信方は笑みをつくって頷く。
 こうして、晴信の初陣は、信虎の面目を保つため急に決められた。
 ――御屋形様はまことに執念深き御方だ。今さらながら大井一門を出奔した平賀玄心斎の討伐とはな。しかも、若の初陣にあえて御方様の縁者を選ぶのだから……。
 信方にも複雑な思いがあった。
 ――されど、突然、降って湧いた話にせよ、この初陣を千載一遇の好機に変えることもできるはずだ。
 今は来月の出陣に集中し、これを勝ち抜かなければならなかった。
 晴信と信方は、来たるべき初陣に向けて走り始めた。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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