「諏訪頼満と頼隆(よりたか)の親子も、ただの莫迦(ばか)ではない。今川との和睦を聞きつけ、余に頭を垂れて『是非に当家と縁組を』と申し入れてきた。おそらく、余が今川と手を組んだ途端、双方から攻められると思ったのであろう。わが娘を頼隆の倅、頼重(よりしげ)の嫁に欲しいと願い、その婚姻がまとまった暁には耄碌(もうろく)した頼満が隠居し、頼隆に跡を譲って武田家の麾下(きか)に入れたいと申しておる。すぐに婚儀が執り行えぬならば、両家で縁組の約束という形を取り、次男の豊増丸(とよますまる)を質に出してもよいと、ずいぶんとへりくだった書状を送ってきた。こたびの婚儀の話を、今川が持ちかけてくる前のことだ。そこまで申すならば、わざわざ犠牲を払って攻めずとも、諏訪家を余の傘下に収めて信濃攻めの先鋒(せんぽう)に使えばよい。跡を嗣ぐ頼隆がわが麾下に入り、その嫡男が娘婿となるのだからな」 信虎は薄く笑いながら言う。 それも荻原昌勝にとっては初耳の事柄だった。 「御屋形様は、諏訪からのお話も、ご承諾なされると?」 「そのつもりだ。於恵を今川に出すとなれば、次は於禰々(おねね)しかおらぬが、まだ幼いゆえ、まずは諏訪家から質を取ることになろう。婚儀は裳着(もぎ)を済ませてからだ」 信虎が言った禰々とは、晴信や恵姫の腹違いの妹であり、まだ齢九にすぎない。女子の成人となる御裳着まで六、七年はあった。 ――御老師が申された通り、今川家と和睦が決まった途端、これまでとは違う様々な事柄が動き始めた。 晴信はそう思いながら身を引き締める。 ――されど、諏訪攻めが初陣でないとすると、相手はいったい……。 その疑問は晴信だけでなく、家臣たちすべてに共通するものだった。 「となりますれば、御屋形様。晴信様の御初陣はいかように?」 荻原昌勝の問いに、信虎はこともなげに言った。 「海ノ口(うんのくち)城の平賀(ひらが)成頼(しげより)が相手でよかろう」 その答えには、全員が息を呑む。 「……さ、佐久の海ノ口城まで出張ると?」 「諏訪へ出張るのと、たいして変わりはあるまい」 確かに信虎が言うとおり、諏訪までは十八里(七十二`)ほどの道程であり、佐久の海ノ口城もほとんど変わりない距離にあった。 「……されど、なにゆえ、う、海ノ口城を?」 昌勝は眼を見開いて問う。 「相手は平賀成頼だと申したではないか。あ奴は余に逆らって敗れた大井の一門を出奔したくせに、最近では埴科(はにしな)の村上(むらかみ)義清(よしきよ)とやらを後盾にし、調子づいて海ノ口城まで出てきたらしい。黙って平賀で燻(くすぶ)っておればよいものを、わざわざ虎の尾を踏みにきよった。ここらあたりでひとつ、余に逆ろうた報いがいかようなものになるか、骨の髄まで思い知らせてやらねばなるまい。まあ、相手を北条とすることもできるが、初陣ならば、あのぐらいの小者が適当であろう。成頼を軽く捻(ひね)り、海ノ口城を落とした後に平賀城まで出て、佐久を押さえるのも一興であろう。諏訪と和睦を続けるのも、背後を突かれぬための策のひとつだ。出陣は来月とする。何か異存はあるか?」 信虎は鋭い眼差しで一同を見廻した。 「……ござりませぬ」 荻原昌勝は両手をついて深々と頭を下げる。 それに合わせ、家臣たちは一斉に平伏した。