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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志8 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「諏訪頼満と頼隆(よりたか)の親子も、ただの莫迦(ばか)ではない。今川との和睦を聞きつけ、余に頭を垂れて『是非に当家と縁組を』と申し入れてきた。おそらく、余が今川と手を組んだ途端、双方から攻められると思ったのであろう。わが娘を頼隆の倅、頼重(よりしげ)の嫁に欲しいと願い、その婚姻がまとまった暁には耄碌(もうろく)した頼満が隠居し、頼隆に跡を譲って武田家の麾下(きか)に入れたいと申しておる。すぐに婚儀が執り行えぬならば、両家で縁組の約束という形を取り、次男の豊増丸(とよますまる)を質に出してもよいと、ずいぶんとへりくだった書状を送ってきた。こたびの婚儀の話を、今川が持ちかけてくる前のことだ。そこまで申すならば、わざわざ犠牲を払って攻めずとも、諏訪家を余の傘下に収めて信濃攻めの先鋒(せんぽう)に使えばよい。跡を嗣ぐ頼隆がわが麾下に入り、その嫡男が娘婿となるのだからな」
 信虎は薄く笑いながら言う。
 それも荻原昌勝にとっては初耳の事柄だった。
「御屋形様は、諏訪からのお話も、ご承諾なされると?」
「そのつもりだ。於恵を今川に出すとなれば、次は於禰々(おねね)しかおらぬが、まだ幼いゆえ、まずは諏訪家から質を取ることになろう。婚儀は裳着(もぎ)を済ませてからだ」
 信虎が言った禰々とは、晴信や恵姫の腹違いの妹であり、まだ齢九にすぎない。女子の成人となる御裳着まで六、七年はあった。
 ――御老師が申された通り、今川家と和睦が決まった途端、これまでとは違う様々な事柄が動き始めた。
 晴信はそう思いながら身を引き締める。
 ――されど、諏訪攻めが初陣でないとすると、相手はいったい……。
 その疑問は晴信だけでなく、家臣たちすべてに共通するものだった。
「となりますれば、御屋形様。晴信様の御初陣はいかように?」
 荻原昌勝の問いに、信虎はこともなげに言った。
「海ノ口(うんのくち)城の平賀(ひらが)成頼(しげより)が相手でよかろう」
 その答えには、全員が息を呑む。
「……さ、佐久の海ノ口城まで出張ると?」
「諏訪へ出張るのと、たいして変わりはあるまい」
 確かに信虎が言うとおり、諏訪までは十八里(七十二`)ほどの道程であり、佐久の海ノ口城もほとんど変わりない距離にあった。
「……されど、なにゆえ、う、海ノ口城を?」
 昌勝は眼を見開いて問う。
「相手は平賀成頼だと申したではないか。あ奴は余に逆らって敗れた大井の一門を出奔したくせに、最近では埴科(はにしな)の村上(むらかみ)義清(よしきよ)とやらを後盾にし、調子づいて海ノ口城まで出てきたらしい。黙って平賀で燻(くすぶ)っておればよいものを、わざわざ虎の尾を踏みにきよった。ここらあたりでひとつ、余に逆ろうた報いがいかようなものになるか、骨の髄まで思い知らせてやらねばなるまい。まあ、相手を北条とすることもできるが、初陣ならば、あのぐらいの小者が適当であろう。成頼を軽く捻(ひね)り、海ノ口城を落とした後に平賀城まで出て、佐久を押さえるのも一興であろう。諏訪と和睦を続けるのも、背後を突かれぬための策のひとつだ。出陣は来月とする。何か異存はあるか?」
 信虎は鋭い眼差しで一同を見廻した。
「……ござりませぬ」
 荻原昌勝は両手をついて深々と頭を下げる。
 それに合わせ、家臣たちは一斉に平伏した。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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