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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志8 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 突然の出来事ばかりで戸惑いがなかったわけではないが、晴信と信方にとっては待ち望んでいた初陣に違いなかった。
 ――他家の内訌の後始末という汚れ仕事が報われた!
 信方もこぼれそうになる笑みを抑えながら思う。
 ――初陣で手柄を立て、御継室を迎えるとなれば、若に対する家中の見方も変わってくるはずだ。
 だが、晴信の初陣と聞き、微かに眉をひそめた者もいる。
 家宰の荻原昌勝と陣馬(じんば)奉行の役目を預かる原(はら)昌俊(まさとし)だった。戦となれば、様々な手配りの責任を負う二人である。
 特に、家内の全般に目配りをしなければならない荻原昌勝は、「今川との和睦を機にしばらく合戦を控えたい」という意向を持っていた。国内疲弊と困窮を見れば、兵糧不足の武田家が勇んで戦へ出張るのは決して得策ではない。 
 同じように、作陣を取り仕切る原昌俊も、新たな戦の支度はかなり困難だと思っていた。
 しかし、信虎がいったん戦を口にすれば、止めようがないのも事実だった。
「御屋形様、晴信様の御初陣という仰せにござりましたが、いよいよ諏訪攻めと相なりまするか?」
 荻原昌勝は己の本心を殺しながら、あえて笑顔で訊く。
 今川と望外の和睦が成立してから、家中の誰もが次の戦いは西の諏訪になるだろうと思っていた。
 新たな戦を起こすことは大きな負担となるが、戦勝の利得どころか、終熄(しゅうそく)の形さえ見えなかった今川、北条との戦いに較べれば、諏訪頼満(よりみつ)との戦いは勝算が立ちやすかった。
 相手の兵力もさほど大きくなく、諏訪を制した後の利得は大きい。
 諏訪大社を中心とする諏訪平は、信濃における交通の要衝であり、各地から諏訪参りに訪れる旅人の落とし銭も多かった。盆地で作られる農産物や諏訪湖の水産物に加え、三州(さんしゅう)街道と東山道(とうさんどう)の合流点である塩尻宿(しおじりしゅく)が近いことにも大きな利得がある。
 塩尻はその名の通り、北陸道で上がる北塩と東海道で上がる南塩の集積地であり、塩の道と呼ばれる三州街道と東山道が交差する場所なのである。海塩の採れない内陸の甲斐にとって、塩尻は重要な拠点のひとつだった。
 このように理詰めで考えれば、武田家にとって最も利得の見えやすいのは、おのずと諏訪平を制する戦という結論に至る。つまり、諏訪頼満との和約を破棄し、即刻攻め入るということだ。
 しかし、信虎は意外な返答をする。
「頼満との戦は、考えておらぬ。しばらく和睦も破棄せぬであろう」
 主君の答えを聞き、家臣の全員が驚いた。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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