よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「今川方の国人衆に造反が広がっているらしいが、どのような状況であるか、昌国」
「今川家の先鋒(せんぽう)であった松平家康の裏切りにより、吉田城が攻略されてからは、国境に近い国人衆が雪崩(なだれ)を打ったように今川家から離反しておりまする。井伊谷(いいのや)の井伊直親(なおちか)、曳馬(ひくま)の飯尾(いのお)連龍(つらたつ)、見付(みつけ)の堀越(ほりこし)氏延(うじのぶ)、犬居(いぬい)の天野(あまの)景泰(かげやす)といった面々にござりまする」
 長坂昌国が現状を伝えた。
 他の者たちは食い入るように地図を見つめている。
「この椿事(ちんじ)に際し、当家は飛騨の江馬(えま)時盛(ときもり)に援軍を送り、敵対する姉小路良頼を奥飛騨へ追いやるに留まった。未(いま)だ遠江への援軍は出されておらぬ」
 義信は憮然(ぶぜん)とした面持ちで言った。
「義信様、ひとつ、お訊ねしてもよろしいでしょうか?」
 曽根昌世が手を挙げる。
「構わぬよ」
「なにゆえ、今川氏真(うじざね)殿は当家に援軍を願ってこないのでありましょうや?」
「そのことか……」
 義信が表情を曇らせる。
「……それは、それがしにもわからぬ。おそらくだが、氏真殿には氏真殿にしかわからぬ矜恃(きょうじ)というものがあるのであろう。軽々には助けを求められぬ、というな。これはそれがしの憶測にすぎぬが」
「されど、当家と今川家は長きにわたる盟友ではありませぬか。あれだけの危機が領国に迫っているのであれば、援軍を求めることは当たり前ではありませぬか」
「それがしも同じ意見だ、昌世。されど、今川家からは未だに申し入れがない。それならば、先方の胸中を察し、こちらから援軍を申し入れることもできるのではないか、と父上に進言したのだ。されど、父上は『今川家からの申し入れがない以上、当家から援軍を言い出すことは、先方に恥をかかせる差出口(さしいでぐち)になる』と仰せになられた」
「はぁ……」
 曽根昌世は戸惑いの息を漏らす。
 他の者たちも複雑な表情で黙りこんでいた。
「御方を通じて氏真殿にわが意を伝えようかとも思うた。されど、それこそ出過ぎた真似になるやもしれぬと思い留まった。氏真殿には、氏真殿のお考えがあるのであろう。しかれども、今川家からの要請があったならば、すぐに兵を出せるよう、かくの如く遠江の情勢を注視しているのだ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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