よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 その後、密教法具の三鈷杵(さんこしょ)を左に旋転させ、浄衣を加持して邪因を取り除く。加持とは手印、真言呪(しゅ)、観想などの方法で加護を与えることである。
 浄衣に身を包んだ信玄も、御師の隣で加持祈禱の手順を見つめていた。
 祓い浄められた衣はすぐに寝所へ運ばれ、潔斎した侍女たちによって諏訪御寮人の着替えが行われる。それを手始めに、身辺にある物は、すべて祓い浄められた品に交換された。
 薬師が用意した生薬や飲み水にも同様の加持祈禱が加えられ、それが夜通しで続けられた。
 翌日、駿府の日羅山金剛院から理法大師の一行が到着し、さらに本格的な真言密教の修法が施される。岐秀元伯から事情を伝えられていた理法大師は、軍荼利明王の本尊像を持参するという念の入れようだった。
 熟達した薬師たちも集められ、漢方の本草学に基づいた新たな生薬による処方、調剤、調合、服用が熟議された。
 それらの成果があってか、諏訪御寮人は小康状態を保ったまま、大晦日(おおみそか)を迎える。
 信玄はずっと高島城に留まり、年が明けても躑躅ヶ崎館へ戻ることはなかった。
 子細は弟の信繁だけに伝えられ、主君不在のため、恒例となっている新年の儀礼もすべてとりやめとなる。
 こうした異例の正月を訝(いぶか)り、嫡男の義信が惣領(そうりょう)代行の信繁に詰め寄った。
「叔父上、いったい父上は何をなされておられますのか? 諏訪で何が起こっているのでありましょうや」
「すまぬ。そなたには話しておかねばならなかったな」
 信繁は兄が諏訪御寮人の看病に付き添っていることを打ち明けた。
 それを聞き終えた義信が眉をひそめる。
「されど、身内は諏訪御寮殿だけでは……」
 嫡男の言葉を遮り、珍しく強い口調で信繁が窘(たしな)める。
「それ以上は申すな、義信!……いまは黙って兄上を見守る時ぞ」
「……わかりました。差出口(さしいでぐち)を挟み、申し訳ござりませぬ」
 義信は睫毛(まつげ)を伏せ、小さく頭を下げた。
 一方、諏訪の高島城は沈鬱な空気に包まれ、正月の祝賀もなく、粛々と加持祈禱と看病が続けられていた。
 信玄は短く眠る以外は、ほとんど加持祈禱に加わった。
 そして、三が日を過ぎた深夜、事態が再び急変する。
 突然、諏訪御寮人が産気づいてしまったのである。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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