よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 信玄はゆっくりと眼を開ける。
「初めて見たそなたは、可憐(かれん)で、冷たく透き通るように美しく、まるで雪原に舞い降りた純白の鵠(くぐい)の如く見えた。だが、その美貌には、どこか寂しげな陰翳(いんえい)が張りついており、余はたまらなく、それに惹(ひ)かれたのかもしれぬ。ところが、そなたの瞳には、紫水晶の如き深遠な光が宿っていた。あるいは、陽炎(かげろう)の中にいる観音菩薩(かんのんぼさつ)像の慈愛に充ちた眼差(まなざ)しのようにも感じられた。余はすぐに、それらの虜(とりこ)にされてしまった」
 少し照れくさそうに俯く。
「そなたの境遇を覆う陰のせいで、二人が結ばれることを願わない者も多かった。されど、誰も二人を引き裂くことはできなかったのだ。そなたが側にいてくれると申してくれた時、にわかには信じられず、それでいて天にも昇るような心地だった。その後、怖がるそなたを余の馬に乗せ、諏訪湖を一周したことを覚えておるか?……鞍(くら)を下りて汀(みぎわ)に立ち、陽光を弾く美しい細波(さざなみ)を見た時、余は決心した。そなたと一生、添い遂げると。そして、そなたのために、この城を築こうと決心した。今ならば、はっきりと言葉にすることができる。於麻亜、そなたは余が自ら懸想した唯一無二の女人なのだ」
 諏訪御寮人の冷たい手を、己の頰に当てる。
「……だから、少しでも早く、元気になってくれ。また、二人で遠駆けをしよう」
 信玄は瞳を潤ませ、祈るように言った。
 そして、止めきれなかった一粒の泪が頰を伝い、諏訪御寮人の頰へと落ちてしまう。
 すると、伏せられていた長い睫毛が微(かす)かに震える。
 その後、諏訪御寮人が静かに瞼(まぶた)を開いた。
「……おやかた……さま」
 掠(かす)れた声だった。
「於麻亜……」
「……あ、吾子(あこ)は?」
 諏訪御寮人が真っ直ぐに、信玄の瞳を見つめる。
「大丈夫だ。……無事に生まれたぞ。元気な男の子だ。そなたは何も心配いたすな」
 その言葉を聞き、諏訪御寮人が微かに頷き、笑おうとする。
 しかし、瞼が力なく落ちていった。
「於麻亜、大丈夫か?」
 その問いに、諏訪御寮人の返答はなかった。
「今はゆっくり休め」
 信玄が優しく頭を撫(な)でてやる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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