よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 本当はあられもなく泣き崩れてしまいたかった。
 それでも、主君としての矜持(きょうじ)が、慟哭(どうこく)を避けようとする。
 相反する二つの感情がせめぎ合い、喉が震え、泪が溢れ出ようとしていた。
 ――醜態を気取(けど)られてはならぬ……。
 必死で動揺を堪えようとする己と、激情に流されそうになる己が、真っ二つに引き裂かれていく。
「……すまぬ。しばらく、二人きりに……しておいてくれ」
 平静を装い、声を振り絞る。
「……畏まりました」
 薬師が恐縮しながら答えた後、跫音(あしおと)が遠ざかっていった。
 それが消え去ったことを確認してから、信玄は諏訪御寮人の冷たい手を握り直す。
「……辛(つら)い思いをさせて済まなかった、於麻亜」
 聞こえるはずもないと知りながら、信玄は耳元に囁きかける。
「……あとは、ゆっくり休むがよい」
 己を置き去りにし、最愛の人だけが忽然(こつぜん)と消えてしまった。
 ――これから、余はどうすればよいのだ。……そなたがいなければ、生きる意味の大半がなくなってしまう。
 そんな虚無感が、己の首筋を鷲摑(わしづか)みにする。
 辺りは払暁の日射しさえも冱(い)つるほど冷気に包まれていた。
 だが、その中に、信玄は何かを感じる。
 ――何だ、これは……。
 思わず顔を上げ、辺りを見回す。
 何かが己の頰を撫で、途轍(とてつ)もなく懐かしい感触を覚えた。
 ――於麻亜、まだ、そこにおるのか?
 諏訪御寮人の軆(からだ)からは、確かに温もりが失われていた。
 しかし、生前と同じ魂魄、その微かな震えだけが、そこにあるような気がした。
 二人の追憶という結界内で、魂魄が肉体から離れることに抗(あらが)うが如く。
 ――そうか……。そういうことか……。
 信玄は細く長い息を吐く。 
 ――於麻亜は余を置き去りになどしておらぬ。二人で過ごした時を惜しむように、於麻亜の魂魄が、まだここで揺蕩(たゆた)っている……。
 それを感じた途端、信玄は誰に憚ることもなく号泣し始めた。

第五部 〈了〉

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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