よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

『何の異存もござりませぬ』
 そんな意味の所作である。
 この二人は城に入ってから余計なことを一言も発していない。
 神後宗治と疋田景兼は上泉の家臣でありながら、同時に秀綱の直弟子であり、新陰流の高弟だった。
「では、まいりましょう」
 家宰に導かれ、上泉秀綱は御前曲輪に向かった。
 謁見の間は厳重に閉ざされており、物音さえ聞こえない。秀綱はそこに一人で入る。
 室には誰もおらず、嫡男の業盛は哭き疲れて寝所で眠ってしまったようだ。
 長野業正の遺体は蒲団に寝かされており、顔には白布がかけられている。
 秀綱はその枕元に正座し、両手を合わせ、眼を瞑(つぶ)って冥福を祈った。
 それから、眼を開け、静かに白布を取る。
 業正の面相はやつれて黒ずんでいたが、ただ眠っているようにも見える穏やかな死顔だった。
 ――業正殿、まことにお労(いたわ)しや。生前に交わしたお約束は、この秀綱が一命をもって果たさせていただきまするゆえ、どうか安らかにお休みくだされ。
 秀綱は再び眼を閉じて掌(てのひら)を合わせる。
『かたじけなし』
 静かな闇の中で、今は亡き業正の声が谺(こだま)するような気がした。
 白布を戻してから、無言で立ち上がり、御前曲輪を後にする。
 秀綱の虚(うつ)ろな心の中に、真冬のからっ風だけが吹き抜けていた。
「豊後殿、ありがとうござりました」
「こちらこそ、伊勢守殿」
「われらは陽が昇らぬうちに戻りまする。お見送りは結構にござりまする。若君には、近いうちにお会いしにきまする。では、失礼いたしまする」
 上泉秀綱は藤井友忠に深く一礼してから、本丸を出た。
 無言で付き添う二人の家臣を伴い、再び搦手門から城外へ出る。
 三騎は藍色がかった闇を切り裂き、大胡城へとひた走る。
 その前途には、上州の危機という暗雲が垂れこめていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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