よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「あえて態度が曖昧な今川の国人衆に対し、織田へは寝返るな、という念押しをしておけということか」
「仰せの通りにござりまする。三河の設楽郡は下伊那に極めて近く、われらにとって田峯城と亀山城は重要な場所かと」
「そこに眼を付けるということは、虎繁もだいぶ成長したということか。田峯城の菅沼定忠と亀山城の奥平貞勝への調略を許す」
 信玄が満足そうに笑う。
「ともあれ、今川と松平党の争いは、今のところ静観するしかあるまい。もしも、氏真殿が押し込まれるようなことがあれば、われらに援軍を申し入れてくるであろう。動くのは、それからでも遅くはない」
「承知いたしました」
「あと、もうひとつ。岩村(いわむら)城の遠山(とおやま)景任(かげとう)あたりに何か仕掛けを打っておくか」
 信玄が言った岩村城とは、美濃国の恵那(えな)郡にあり、三河との国境に極めて近い。
 城主である遠山景任は、武田家が美濃の木曾谷(きそだに)を降(くだ)した際に恭順の意を示してきた。
 しかし、景任の正室、おつやの方は織田信長の叔母であり、前の桶狭間の戦いでは織田方として参陣している。
 いわば、現在は武田家と織田家に両属するような立場になっていた。
「されど、遠山景任は織田と通じているのではありませぬか?」
 馬場信房の問いに、信玄が頷く。
「おそらく、織田だけではなく、美濃の斎藤(さいとう)義龍(よしたつ)とも通じているのではないか。であるからこそ、あえて前の桶狭間参戦を咎(とが)める形で、織田との関係を遠山景任から聞き出す。ついでに、美濃と三河の状況に関しても問い詰めればよい」
「なるほど。仰せの通りかと」
「木曾義昌(よしまさ)を成敗するついでに降した遠山景任だが、ここに至り、少しは役に立ちそうだ。この件も重ねて虎繁に伝えておいてくれ」
 主君の先見の明に改めて感服しながら、信房が答える。
「わかりました。ところで、御屋形様。実は伯耆守より御願い事を預かっておりまする」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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