よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 馬場信房が苦笑する。
「いや、滅相もござりませぬ。世辞などではなく、まことのこと。四郎殿の根城、……おっと、諏訪勝頼様の本城にふさわしい構えにござりまする」
「ところで、虎繁。本日はいかがいたした」
「民部殿に遠江(とおとうみ)、三河(みかわ)のことなど報告がてら、お願いなどもござりまして」
「お願い?……なんだ、嫌な予感しかせぬな」
「何を申されまするか。実は……」
 秋山虎繁は馬場信房の耳元に囁(ささや)きかける。
「……飯田城へ移ったことを機会とし、改名をできぬかと考えておりまして」
「改名、とな!?……なにゆえか?」
 信房は少し驚きながら聞き返す。
「いや、虎繁の名に不満があるわけではなく、できうれば、この機会に御屋形様から偏諱(へんき)をいただき、心機一転できぬかと考えましてござりまする。なにせ、虎の一字は御先代からの偏諱ゆえ、何かと肩身も狭く、民部殿の如(ごと)き名乗りになれぬかと……」
 虎繁が言ったように、馬場信房の旧姓は教来石(きょうらいし)景政(かげまさ)であり、今の信房という名は晴信(はるのぶ/信玄)の偏諱一字を授けられたものだった。
「御屋形様に新たな烏帽子親(えぼしおや)をお願いいたすということか」
「その件を、是非とも民部殿から御屋形様に、お伝え願えないかと。虎繁も飯田城を預かるようになったことであるし、ということで」
「……なにゆえ、それがしが」
「この身がお願いするよりも、御近習筆頭の民部殿からお伝えいただいた方が御屋形様も真剣に聞いてくださりましょう。なにせ、話の重みが違いまするゆえ。何とか、なりませぬか?」
 虎繁が両手を合わせて頭を下げる。
「仕方がないな……」
 少し困ったような顔で馬場信房が頷く。
「……間もなく、御屋形様がこの城を検分するためにお越しになるゆえ、その時にそれとなくお伝えしてみる」
「有り難き仕合わせ! さすが、民部殿、頼りになりまする」
 秋山虎繁は満面の笑みで答えた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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