第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「柿崎、長居は無用ぞ! 退くのだ!」
越後の重臣筆頭、宇佐美(うさみ)定満(さだみつ)が鬼の形相で命じていた。
その声に、黒武者が一瞬、気を取られる。
その様を、信繁は見逃さない。間髪を容(い)れず、馬の首ごと相手を薙(な)ぎ払うような一撃を繰り出す。
その苛烈(かれつ)な一撃をすんでのところで弾き、黒武者は素早く馬首を返し、犀川の北岸へ走り去る。
しかし、土手へ上がる直前に向きを変え、川中にいる信繁を睨め付ける。眼庇(まびさし)の下にある髭面(ひげづら)が、実に悔しそうに歪(ゆが)んでいた。
信繁も口唇を嚙み、相手の顔を見つめ返す。
――強い……。何という強さか。あのままでは危なかった……。膂力(りょりょく)だけではない。すべてにおいて、この身を勝(まさ)っているのではないか……。
両手には、まだ相手の初撃を受けた時の痺(しび)れが残っている。
武田の先陣騎馬隊が立ちはだかったことで、越後勢は打って出た時と同じく、迅速な動きで川中から撤退した。
「われらも退くぞ!」
信繁は味方の騎馬に命じる。
「されど、油断いたすな! 岸に上がってからも敵を警戒せよ!」
馬首を返し、川から上がって南岸へと戻った。
――おのれ! まんまと虚を衝かれた。
信繁は顔を歪め、歯嚙みする。
――日中ならば、越後勢が川を渡ってこないと高を括(くく)っていた。兵法の常道を逸し、まさか白昼に己の眼前で渡河する愚昧者(おろかもの)などいるまいと気を緩めていたのだ。それを見透かすように、裏を搔(か)かれた。くそ!
思えば、敵はまさに絶妙の機で渡河を敢行していた。
当然のことながら、武田の先陣は夜を徹して奇襲を警戒している。夜討朝駆の渡河ならば、まさに待ち受ける武田勢の思う壺だった。
しかし、敵は中天に陽が上がる刹那を狙い、奇襲を仕掛けてきたのである。まさに武田勢の緊張が途切れる空白の一瞬を衝いてきた。
――己が学んだ兵法を嘲笑うが如き戦法であったとしか思えぬ。案じたのは、長尾景虎か……。
信繁が思案に耽(ふけ)っているところへ、足軽大将の山本菅助が駆け寄ってくる。
「典厩様、越後の者どもがいきなり川を渡ってきたと聞きましたが」
「ああ、何とか、押し返した。されど、危ういところであった。もしも、いったん退いて岸辺で相手を迎え撃とうとしたならば、勢いに乗る敵方に先陣を貫かれ、後方から押し寄せる越後勢の本隊に、われらの本陣まで攻め込まれていたやもしれぬ」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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