よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「高白、すぐに東海道一帯の地図を集めよ。それと桶狭間という地について、さらに詳しく調べるのだ」
「承知いたしました」
 駒井高白斎が一礼し、手配りに走った。
 これが永禄(えいろく)三年(一五六〇)の五月二十四日のことであり、今川義元の討死は遡ること五日前の十九日であったという。
 信玄は腕組みをし、年明けから今に至るまでを思い返してみる。
 年明け早々に、不意の逝去で諏訪御寮人(すわごりょうにん)を奪われ、その悲しみは己で思う以上に深く、生きる気力を根こそぎ奪いかねないほどであった。
 信玄は諏訪で粛然とした葬儀を行った後、深志(ふかし)城に籠もったまま、誰とも会おうとしなくなった。
 喪に服した四十九日はもとより、ほぼ二ヶ月半を過ぎても何も手につかないほど憔悴(しょうすい)した。
 火急の裁可を求められる件以外は政務に関わらず、戸惑う家臣たちへの対応は、すべて弟の信繁(のぶしげ)に任せてしまう。
 深志城に籠もったのは、甲府で三条(さんじょう)の方(かた)や義信(よしのぶ)、その他の身内に、萎(しお)れた己の姿を見られたくなかったからである。
 さりとて、諏訪に居続けるのは、あまりに苦しすぎた。
 ――高島(たかしま)城にいると、於麻亜(おまあ)との睦まじかった日々が次々と蘇(よみがえ)り、息ができなくなりそうになる……。松本平(まつもとだいら)ならば諏訪からも遠くなく、甲府からの干渉も及ばぬ。今はただ身を竦(すく)めたまま、遥かな高みへ上ろうとしている於麻亜の魂魄(こんぱく)を追いかけながら、この胸の痛みに耐えていくしかない。
 それが信玄の本音だった。
 しかし、武田家の惣領(そうりょう)がいつまでも身を竦めているわけにはいかなかった。
 まだ肌寒さの残る弥生(やよい/三月)に暦が変わった頃、今川義元から「皐月(さつき/五月)に入ったならば、上洛を敢行し、京の公方に謁見するつもりである」という連絡がもたらされた。
 その途上で今川家に恭順しない勢力を仕置するため、二万余の将兵を率いて東海道を西上するという。その標的が尾張と三河(みかわ)に根を張る斯波家の残党であることは明らかだった。
 京の公方から正式な要請があったということもあり、上洛する今川勢を正面から足止めしようという勢力があるとは思えない。つまり、幕府の威光も使った上で、東海道を平らげながら京へ向かうという目論見だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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