よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「他には、ないのか?」
「東三河に隣接する遠江の国人衆にも動揺が広がっていると見えて、井伊谷(いいのや)城の井伊直親(なおちか)や曳馬(ひくま)城主の飯尾(いのお)連龍(つらたつ)、犬居(いぬい)城の天野(あまの)景泰(かげやす)、見付(みつけ)城の堀越(ほりこし)氏延(うじのぶ)らへ、今川氏真殿から直々に慰留の書状が送られたと聞いておりまする」
 信君の答えに、二人が顔を見合わせる。
「思うた以上に、悪しき波紋が広がっているようだな」
 信玄の言葉に、信繁が頷く。
「氏真殿も今が踏ん張りどころにござりましょう。下伊那への梃子(てこ)入れを急ぎ、遠江での離反に備えておきまする」
「信君、幡龍斎に引き続き、よろしく頼むと伝えてくれ」
「御意!」
 穴山信君が深々と頭を下げた。
 東海の動きを注視するため、信玄は甲府に留まっていた。
 しかし、新たな動きは、意外なところで起きる。
 それは安房(あわ)の里見(さとみ)義堯(よしたか)を討伐するために出陣していた北条氏康からの一報であった。
 なんと、里見義堯が越後に救援を求め、長尾(ながお)景虎(かげとら)がその要請に応じたのである。
 永禄三年(一五六〇)九月初旬、景虎が率いる越後勢一万が三国(みくに)峠を越え、上野(こうずけ)へと侵攻する。手始めに沼田(ぬまた)城を落とし、逃げる城主の北条氏秀(うじひで/沼田康元〈やすもと〉)を追いながら岩下(いわした)城、続いて厩橋(うまやばし)城を攻略した。
 北条氏康は里見の本拠地である久留里(くるり)城を包囲していたが、越後勢の襲来を知り、上総(かずさ)から撤退する。そのまま軍勢を率いて武蔵(むさし)の河越(かわごえ)城を経由し、松山(まつやま)城へと入った。
 そこから信玄に「景虎、上野へ侵攻」の報を送ってきたのである。
 厩橋城に入った景虎は、上野の長野(ながの)業正(なりまさ)らの支援を受けながら小川(おがわ)城、名胡桃(なぐるみ)城、明間(あけま)城、白井(しろい)城、那波(なわ)城など北条方の諸城を攻略した。
 一方その頃、駿府での役目を終えた穴山幡龍斎が、嫡男が待つ河内へと帰還する。穴山信君が最後の報告に向かった後、幡龍斎は大役を果たせたことに安堵(あんど)し、心置きなく酒を吞んだという。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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