よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   六十二

 今川家の思わぬ大敗は、武田一門を予想以上に大きく揺さぶった。
 盟約が危うくなったこともあるが、それ以上に義元の娘を正室に迎えている嫡男の義信が激しく動揺する。それが家中にも伝染した。
 そのため甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館で評定が開かれ、今後の対策が協議された。
 その冒頭で突然、信玄が表明する。
「最近、喉の調子が芳しくないゆえ、今後しばらく評定の差配は、信繁に任せたいと思う。皆も異論はなかろうと思うが」
 このことは弟にも事前には伝えていなかった。
 信繁は真意を量るように、じっと兄の顔を見つめる。
 ――於麻亜のことがあってから数ヶ月、弟に家中の取りまとめを任せてきた。それを見た限り、惣領代行としての信繁の器量と手腕は、充分すぎるほどであった。それゆえ、今後は家中の柱石となってもらう。
 それが信玄の考えだった。
「では、御屋形様の命により、評定の取りまとめを代行させていただこうと思うが、異存があれば何なりと申してくれ」
 信繁は一同を見廻す。
 当然のことながら、異を唱える者は誰一人としていなかった。
「信繁、ならば、ここへ」
 信玄は脇に移り、大上座を空ける。
「兄上……」
「ここの方が皆の顔をよく見渡せよう」
「承知いたしました」
 信繁はゆっくりと立ち上がり、大上座に上った。
 背筋を伸ばし、一段と声を張る。
「それでは改めて、評定を進めたいと思う。こたびは、今川義元殿の急な御逝去を受け、今川家との今後について評議したい。跡を嗣がれた今川氏真殿から、御葬儀は身内だけの密葬にしたいという旨の連絡は受けている。されど、当家からは厚く弔意を示したいと伝えておいた。問題は、両家の盟約についてである。何か意見がある者はいるか?」
「叔父上、お願いいたしまする」
 嫡男の義信が手を挙げる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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