よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   六十一

 遠くで馬の嘶(いなな)きが聞こえた。
 続いて蹄(ひづめ)の音が響き、それが近づいてくる。
 塗輿の中で微睡(まどろ)んでいた今川義元にも、それが夢の中の出来事として聞こえていた。
 ――騒々しい……。先陣からの早馬か?
 半睡半起の意識の中で、そんなことを思っていた。
 一刻(二時間)ほど前の巳(み)の後刻(午前十一時)、義元は桶狭間山に上り、そこで昼餉の支度をさせた。
 この西側の中腹からは今川勢の先陣隊がいる巻山(まきやま)、幕山(まくやま)、高根山(たかねやま)などが一望できた。
 二つの先陣隊が敵方の拠点である丸根砦と鷲津砦を首尾良く落としたことを受け、義元は昼餉に戦勝祝いの御酒を用意させる。上機嫌で盃(さかずき)を重ね、少し酔い始めた。
 その頃から空に黒雲が広がり、空模様が怪しくなる。
 雨を警戒し、義元の本隊は休息を切り上げ、桶狭間山の中腹から麓の大高道へと下りた。
 義元は酔いのせいで眠気をもよおしたため、愛駒から塗輿へと乗り換える。
 その後、急に雨が降り始める。すぐに止(や)むかと思われた雨足は次第に強まり、しまいには雹(ひょう)が混じるような荒れ模様となった。
 輿の中で眠りそうになっていた義元は、雹が当たるけたたましい音で眼を覚ます。
 小窓を開いて外を見た後、副将の井伊(いい)直盛(なおもり)に雨宿りを命じた。
 今川勢は視界を遮るほどの豪雨を避けるために脇の林で行軍を止める。
 やがて、雨足が弱まり始め、今川勢が再び大高城へ向かおうとした。
 その刹那である。
 馬の嘶きと蹄の音が響く。さきほど今川勢が休息していた西側からだった。
 そのけたたましい音が次第に近づき、それに加えて旗本衆から怒声が上がる。
 微睡みに揺られていた今川義元は、ただならぬ外の気配に眼を開け、上半身を起こす。 それから、輿の小窓を開いて外の様子を見つめた。
 大木が根を張れない急斜面が見え、その上から騒然たる物音が響いてくる。
 義元の乗る塗輿はその谷側にいたが、物音に驚いた担ぎ手が思わず足を乱したようで、不安定に揺れていた。
 その時、急斜面に騎馬武者の一団が躍り出る。
 その数、一目にも五百以上。
 真っ黒な具足に身を包み、黒母衣(くろほろ)を背負った一団がまっしぐらに義元の輿をめがけて斜面を下りはじめた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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