よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 兜(かぶと)の陰になっていた騎馬武者の鬼面が光に照らされ、歯を食いしばる口元が見えた。
 白刃一閃(いっせん)!
 敵が放った初撃を、義元は左文字で弾く。
「こい! 下郎!」
 振り返りざま声を上げながら、義元は両眼を見開く。
 その瞬きよりも短い刹那のことであった。
 義元は突然、眼前が発光するような感覚に囚(とら)われる。中空を睨(にら)んだ己の眼に、陽光が乱反射した。
 背後から迫った別の騎馬武者が、義元の首に槍を突き入れたのである。
 ひゅっ!
 声も出せず、義元が前のめりに膝をつく。
 一撃で絶命していた。
「……奪った。今川の総大将を討ち取ったぞ!」
 槍を放った騎馬武者、毛利(もうり)良勝(よしかつ)が叫ぶ。
 その光景に、周囲にいた今川勢の旗本衆が呆然(ぼうぜん)と立ち竦む。
 斜面を下りた黒母衣の騎馬武者が、容赦なくその者たちを討ち取っていく。
 敵の奇襲により、今川の本陣は完全に瓦解する。その後は敵が一方的に暴れる草刈場となった。
 総大将である義元の討死により、今川勢の将兵は戦意を喪失し、ちりじりになって敗走し始める。
 後日わかったことだが、織田信長は今川勢の鳴海(なるみ)城を睨む善照寺(ぜんしょうじ)砦に兵を集め、豪雨に紛れて桶狭間山を窺うことのできる太子ケ根(たいしがね)の山陰に潜んでいた。
 雨が止んで義元の本隊が山の西側へ下り始めたことを確認すると、今川本陣があった中腹まで進み、有利な高所から一気に奇襲をかけたのである。
 南側にも別働隊を配しており、同時に挟撃を敢行した。
 まさに乾坤一擲の勝負、……いや、一か八かの博打(ばくち)だった。
 だが、結果的には義元の御首級と愛刀の左文字を奪い、奇襲は想像だにしていなかった織田勢の大勝利で終わっていた。
 この出来事は周辺どころか、あっという間に諸国へ広まった。
 あり得ない大金星を上げた齢(よわい)二十七の武名は日の本を震撼(しんかん)させ、織田信長はいきなり大乱世の先頭に躍り出ることになった。
 同時に、東海道の制覇と上洛を夢見た今川義元の生涯も潰(つい)えていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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