第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
――思えば、余はここまで敗北の苦さを知らずにきてしまった。勝ち続けることが当たり前と、どこかで増長していたのかもしれぬ。……いや、板垣や甘利をはじめとする将兵たちの命のおかげで、勝利の美酒を味わうことができていたとわかってもいなかった。かけがえのない者たちを奪われることでしか、そんなことに気づかぬ愚昧者(おろかもの)であったのだろう。家臣たちの命を失うということが、これほどに重く苦しいとは……。
そう思いながら、重圧が喉元を締めつけて息苦しくなり、憚(はばか)りなく泪(なみだ)することもできない。
それが一門を率いる者に課せられた宿命だった。
――どうすれば、よいのだ……。
晴信は食物を口にする気も失せ、わずかな水だけを飲み、煩悶(はんもん)し続けた。
その翌日、信繁が戻ってくる。諏訪へ向かってから五日後のことだった。
「兄上、信繁にござりまする。ただいま戻りました」
御座処の外から声をかける。
「家臣たちの亡骸は無事、諏訪上社に納めましてござりまする」
「……さようか。入って構わぬぞ」
晴信の返答が聞こえてくる。
「いいえ、お邪魔はいたしませぬ。ご報告だけで失礼いたしまする」
信繁は踵(きびす)を返し、立ち去った。
――不甲斐なき兄に怒っておるか……。
晴信には弟を引き留める術もなかった。
しかし、この時、信繁が面と向かわなったことには訳がある。もちろん、この日に諏訪から戻ってきたことにも深い理由があった
信繁は加藤信邦のところに向かい、諏訪での動きを報告する。
「……神葬祭の支度は調いました。この寒さゆえ、亡骸がすぐに傷むこともありませぬ。加えて、明日、母上からの使者が到着いたしまする」
「おお、大井の御方様が動いてくださりましたか……」
加藤信邦が安堵(あんど)したように頷く。
「着きましたならば、すぐに兄上へ取次を」
「承知いたしました」
「それがしは、しばらくおとなしくしておりまする」
信繁がここへ戻る一昨日前、甲斐の府中に行った今井信甫が諏訪へ戻ってきた。
そして、大井の方が二人の使者に晴信宛の書状を託したことを告げた。
その一報を受けてから、信繁が一足先に戻ってきたのである。
おそらく使者が携えてくるのは、今井信甫や駒井政武と画策した大井の方からの諫状となっているはずだった。
そうした意図を見抜かれない自信がなかったため、信繁はあえて晴信と対面しなかった。
――この身が兄上に対して差し出がましい事をしているのは、重々承知している。途轍(とてつ)もない無礼を働いているのやもしれぬ。その負目を、兄上ならば、すぐに見抜くであろう。いまは平然を装う自信もなく、身を竦(すく)めているしかない。ただ、兄上のお気持ちが少しでも動くことを願うばかりだ。
それが信繁の本心だった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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