よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 それから、二人はしばし黙って湯に浸かった。
 そして、突然、晴信が口を開く。
「このところ討死した者たちの往生を願いながら、ひとつだけわかったことがある。板垣の討死は、余にとって一騎当千の古兵(ふるつわもの)の死、つまり一千の兵の死にすら値するということだ。……いや、まだ足りぬ。おそらく、万の兵の死にも等しい。それを悟った。余が小県に留まり続けても理解できなかったことが、諏訪での供養を済まし、府中へ戻ってきた途端、初めて言葉になった。そして、その万の死によって、この愚かな一命が救われたのだ。万死(ばんし)がたった一生(いっせい)を残す。皮肉なことだ」
 晴信は自嘲をこめて言う。
「果たして、余にそれだけの価値があるのであろうか。なにゆえの万死一生なのか。……その答えには、まだ至っておらぬ。同様に、そなたにとっても、甘利の討死は万人の死にも等しいのではないか?」
「……まだ、よくわかりませぬ。されど、おそらく、さように思う日が遠からず来るような気がいたしまする」
「その甘利が敵から板垣の首級(しるし)を取り戻してくれた。それなのに、余は礼を言うこともできなかった。まことに、すまぬ」
 晴信の謝罪を聞き、信繁が砕けそうになるほど奥歯を嚙みしめる。
「そして、板垣は、常に余の師であり続け……」
 声を詰まらせた後、次の言葉を振り絞る。
「……育ての父でも、あった」
「……兄上にとって駿河守殿は師父、であったと。確かに、この身にとって甘利も、そのような存在でありました」
 そう言ってから、信繁も両手で湯をすくい、何度も己の顔にかける。
 実は、この弟にも兄と同じような体験があった。
 父の信虎を甲斐から追放した後、消沈し続けていた信繁を甘利虎泰が誘い、要害山城に登ってから、この涌湯に導いてくれた。
 その時、甘利虎泰は兄と板垣信方の関係を聞かせてくれた。そのため、信繁は己が生まれてもいない大永元年の出来事を知っていたのである。
『それがしも駿河守殿が御屋形様を守られたように、命ある限り信繁様をお守りいたしまする。御父上のことを気に病むなとは申しませぬ。されど、それ以上に御屋形様と駿河守殿を信じようではありませぬか。きっと、これから武田家は良くなりまする』
 何の外連(けれん)もなく、甘利虎泰はそう言った。
 それを思い出し、不意に信繁の両眼から泪が溢れ出る。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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