「されど、駿河守殿。そなたは何の権限があって、わが屋敷に踏み入ったのか?」 「それはさきほど申した通りだ。御屋形様がお留守になされている今、勝手に戦支度をして集まるのは、謀叛も同然の行動である。後事を預かる晴信様が詮議して当然であろう」 「後事を預かる? 晴信様が?……これは異な事を申される。留守を預かったのは、われらだと思うたが」 「それは武川衆の内々の話であろう。そなたらは土屋殿から一派の寄合を預かっただけだ。新府の留守を預かるのは、御屋形様の長男であらせられる晴信様ではないか。戯(たわ)けたことを申すな」 「戯けたことをなさっているのは、どちらの方かな。かようなことが御屋形様に知れたならば、ただでは済みませぬぞ。詮議で終わればよいが、処罰は免れますまい」 飯田虎春はまだ強気だった。 「飯田、心配してくれるのはありがたいが、それには及ばぬ」 晴信が冷静な口調で答える。 「御屋形様には、新府へお戻りになる前に御隠居していただくことにした。それに従い、土屋殿や柳沢(やなぎさわ)にも側仕(そばづか)えとして隠居してもらうことにした。残った武川衆の取りまとめは、元々の宗家である青木殿に頼むことにしたゆえ心配には及ばぬ」 「御屋形様が御隠居!?……何を申されるか。さように勝手なことが……」 「それがわれら兄弟と武田家家臣の総意なのだ」 事もなげに言ってのけた晴信を、飯田虎春は愕然(がくぜん)としながら見つめる。 「何ということを……。おい、甘利、かようなことを言わせておいてよいのか。信繁様は……御屋形様が跡目とお認めになった信繁様のお立場はどうなる?」 「大きな声を出されますな、飯田殿。不服があれば、かような処(ところ)にはおりますまい」 甘利虎泰が苦笑いする。 「甘利、それがしから、はっきりさせておこう」 信繁が前へ歩み出て、飯田虎春を見つめる。 「飯田、以前より、そなたがこの身を高く評してくれたことには感謝いたす。されど、それがしは兄上を差し置いて武田を嗣(つ)ぐ気など毛頭なく、父上の御下命があろうともお断りするつもりだった。われらは兄上を新たな惣領(そうりょう)と仰ぎ、武田家の再建に尽力すると決めた。それゆえ、こうして、ここにいる」 「の、信繁様……」 「あと、もうひとつ。そなたが以前から兄上の廃嫡を軽々しく口にしていたことに対し、苦々しく思うていた。加えて、兄上をいかにも非才の如(ごと)く誹謗(ひぼう)中傷していたことは、弟として断じて許せぬ。兄上の力を見誤っている非才は、そなたの方だ。さような者に新たな惣領の家臣となる資格はない」 信繁は皆が驚くほど断固たる口調で言う。 飯田虎春は眼を見開いたまま絶句していた。 晴信がさらに言い渡す。 「そのようなわけで、そなたとここにいる者が素直に縄目を受ければ、この件は落着だ。武川衆が謀叛の嫌疑を受けることもなくなる。神妙にせよ」 その言葉を聞き、飯田虎春は廊下に頽(くずお)れる。 「……手向かえば、命を奪うと」 「いや、生かして捕縛するだけだ。御屋形様の御隠居が行われた後に放免してやる。されど、甲斐に留まることは許さぬ」 晴信は毅然(きぜん)と言い放った。 「……力尽くで御屋形様を御隠居させるなど……それこそ謀叛ではないか」 「飯田、これは謀叛ではない。われらは甲斐と武田一門の立て直しのために、無血での惣領移譲を目指しているだけだ。それが家臣の大方の望みであり、盟友となった今川(いまがわ)家の意向でもある」 「た、たとえ、無血で済んだとしても……謀叛には変わりない。少なくとも、そ、それがしは謀叛と見なす」 「構わぬ。甲斐の再建には、保身しか考えぬ、そなたの力は必要ない。そのような者が何を喚(わめ)こうと、それがしの決意は揺るがぬ」 さすがにそこまで晴信に断言されると、飯田虎春も黙るしかなかった。 この者に加え、柳沢貞興(さだおき)ら数名が捕縛され、躑躅ヶ崎館の牢に繋がれた。 土屋一派の寄合に集まっていた者たちは、原(はら)昌俊(まさとし)と青木信種(のぶたね)の説得もあり、離反しなかった。こうして武川衆の分裂騒動は、ぎりぎりで回避される。 「若、これで後顧の憂いはなくなり申した。最後の仕事に取りかかりましょう」 信方の言葉に、晴信も大きく頷(うなず)いた。 「急ぎ、万沢(まんざわ)へ出向こう」 残るは最大の難関、父への面訴だけだった。