十九 甲斐と駿河の国境(くにざかい)にあたる万沢の里に、透き通った夏の宵闇が下りてくる。 まだ陽が沈んだばかりだというのに、辺り一帯には夥(おびただ)しい篝火(かがりび)が焚(た)かれ、物々しい気配に包まれていた。 甲駿(こうすん)を繋ぐ河内路(かわうちじ)(駿州往還)に逆茂木(さかもぎ)が並べられ、通行を封じる武田の者たちがひしめいている。 それらの動きに目を配りながら、晴信は陣所の最奥で仁王立ちしていた。 その面持ちは心なしか強ばり、右手には総大将のみが持ちうる武田菱(びし)の采配が握りしめられている。 晴信と家臣たちは、駿府から帰還してくる信虎(のぶとら)の一行を待ち、払暁から万沢に陣取っていた。この日のうちに甲斐の新府へ戻るつもりならば、午後早くにはここへ到達すると想定していたのだが、陽が傾き始めてもいっこうに姿を現さない。 じりじりと焦燥が高まるうちに、太陽は西の山影へと入ってしまう。悪い兆しだった。 ――もしかすると、本日の御帰還はないのか? そんな当惑が陣中に広がる中、篝籠(かがりかご)に松明(たいまつ)の火が入れられる。 晴信の重圧も頂点に達しようとしており、まるで篝火の輝きに魅入られたかの如く、微動だにせず、その揺らぎを見つめていた。 ひときわ激しい焔(ほのお)をあげる篝籠から夥しい火の粉が舞い上がり、薪(まき)の焦げた匂いが鼻孔をくすぐる。 その時、どこから迷い込んできたのか、蛾が一匹、揺らめく焔に近づいていく。 晴信の眼が不安定な翅(はね)の舞に釘付けとなる。 その蛾は立ち上る熱気に呑み込まれまいとしながら、しばらく篝籠の周りをゆらゆらと漂っていた。 しかし、目映い輝きに幻惑されたのか、ついに焔の揺らめきの中へと吸い込まれてしまう。あっという間の出来事だった。 禍々(まがまが)しい模様の翅が瞬く間に燃え尽き、蛾の姿は跡形もなく消えた。 それを見た途端、胸中に拭いがたい感情が湧きあがってくる。 ――これは……。以前にも、これと同じ光景をどこかで見たはずだ。夢……夢の中か?……いや、焔の中で燃え尽きたのは、あの日とまったく同じ翅模様の蛾のような気がする……。 既視とも思える光景を見て、晴信は軽い眩暈(めまい)を感じる。 ――確か、わが初陣の夜も、こうして一匹の蛾が火の粉に吸い込まれる様を見つめていたはずだ。……いや、違う。そんなはずはない。わが初陣は玄冬(まふゆ)に行われ、雪がちらついていたのだ。蛾など飛んでいるはずが……。 それが記憶違い、あるいは錯覚だったとしても、さきほどの出来事と記憶の奥底にこびりついている光景が、なぜか、ぴたりと重なっていた。 『この身は幻を見たのか!?』 初陣の日もそう思いながら、紅蓮(ぐれん)の焔に吞み込まれる蛾の姿がはっきりと見えており、晴信は止めどもなく涙を流した。焔の煌(きら)めきに幻惑され、自ら飛び込んでいった哀れな虫けらの姿が、なぜか初陣の重圧に押し潰されそうになった己と重ってしまったからである。 ――確かに、あの夜と同じだ。この身は、これから起こるであろう出来事を想像するだけで潰れそうになっている。あの蛾は父上の瞋恚(しんい)の焔に灼(や)き尽くされる己の姿やもしれぬ。 篝籠から舞い上がる火の粉を見つめながら、晴信は無意識のうちに何度も奥歯を嚙みしめる。 覚悟を決めたつもりでも、これから起こる試練を想像するだけで、自然と全身が強ばってしまう。 その気配を察したように、信方が空笑みをつくりながら、近づいてくる。